説    教         ヨエル書23032節  ルカ福音書125456

               「今の時を弁えよ」 ルカ福音書講解〔132

                2022・08・28(説教22351975)

 

 「(54)イエスはまた群衆に対しても言われた、「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。(55)それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。(56)偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」。

 

ルカ伝12章において主イエス・キリストは、おもに十二弟子たちを対象として御言葉を語っておられました。しかし今朝の54節においては、主は改めて群衆に向き直りたもうて語っておられるのです。それは「今の時を弁えよ」という内容の説教でした。、おそらくこの説教を主イエスは、旧約聖書のヨエル書230節以下を念頭に置いてお語りになっておられます。「(30)わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。(31)主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。(32)すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある」。

 

 私はかつて農学校で学んだ経験を持っていますが、農業においてとても大切なことは「時を見分けること」です。たとえば、今はちょうど南関東において早場米の収穫期を迎えています。稲の収穫の時期はどうやってわかるかと申しますと、稲の葉や穂の微妙な色の変化を見て判断するわけです。もし収穫期を見誤ったら、それは農家にとって大損失になりかねません。だから農家の人たちは(これは稲だけではなく、他のどんな農作物についても言えることですが)「時を見分けること」に全神経を集中します。それが最も重要なことになってくるわけです。

 

当然のことながら、農業においては自然が相手ですから、人間の都合で勝手に動くことはできません。むしろ人間の側が自然に合わせて動かなくてはならないわけです。それが「時を見分けること」です。そこで、主イエスの時代のユダヤにおいては、人口のほぼ60%以上が農業または牧畜の従事者でした。ですから今朝の御言葉において主イエスが「(56) あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」と語っておられることは、とてもわかりやすい身近な譬えでした。「(54)あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。(55)それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる」。

 

 ところが、主イエスはなんと今朝の56節において、これらの人々に向かって「偽善者よ」と呼びかけておられるのです。「(56)偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」。西の空に雲が沸き起こるのを見て「もうすぐにわか雨がある」ことがわかると言うあなたたちなのに「どうして今の時代を見分けることができないのか」。これは文語訳の聖書を見ますと「今の時を辧ふること能はぬは何ぞや」という翻訳になっています。「辧える」というのはやや古風な日本語ですが、もともとのギリシヤ語の意味を正しく伝えている素晴らしい訳語だと思います。それは何かと申しますと「見分ける」という時には私たち自身が事柄の中心に立つのに対して「辧える」においてはむしろ主なる神が中心に立っておられるからです。

 

 例えば私たちは、祈る時にも「どうか神の御心を見分けさせて下さい」とは祈らないのではないでしょうか。むしろ私たちは「どうか神の御心を弁えることができますように」と祈るのではないでしょうか。それは「弁える」とは、自分を離れて神の憐れみに自分を投げかける行為を含むからです。それは主イエスがマタイ伝53節において「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」とお語りになったことと重なり合うのです。聖書で言う「心の貧しさ」とは、私たちがエゴイズムを捨てて神の愛と憐れみに自分を委ねることだからです。さらに正確に言い換えますなら、私たちは神の恵みと憐れみに自分を委ねることによって初めてエゴイズムを離れることができるのです。つまり「弁える」とは、私たちが自分の人生を神の恵みが働く場としてキリストに差し出すことです。もともとのギリシヤ語を正しく伝えていると申したのはそういうことです。

 

 そういたしますと、今朝のルカ伝1254節以下の意味が、だんだんはっきりしてくるのではないでしょうか。主イエスが54節の冒頭において、人々に(つまり私たちに)「偽善者よ」と呼びかけたもうたのは、空を見れば天気の変化がわかると言い張る私たちであるにもかかわらず、神の恵みの招きを知ろうとはせず、むしろ私たちは神の愛を無視し続けて生きているからなのです。つまり、私たちはエゴイズムの塊のようであるにもかかわらず、自分は「時を見分けることができる」と言い張って自分を正当化しようとするのです。神に自分を委ねるのではなく、自分を中心としたエゴイズムに固執するのです。そして自分の中に勝手に新しい神を作り上げるのです。まさにそこに私たちの偽らざる姿があることを、今朝の御言葉は私たち一人びとりにはっきりと示しているのです。

 

 そこで私たちは、改めて今朝のヨエル書232節の御言葉を心に留めたいと思います。「(32)すべて主の名を呼ぶ者は救われる」。古代イスラエルの預言者ヨエルは、ここには例外などないと語っているのです。すべて主の名を呼ぶ者は救われるのです。だからこそ、そこで私たちに神が求めておられることは、神の御名を呼びまつることにおいて今の時を弁えることです。さらに申しますなら、今の時を弁えることとは、私たちがあるがままに主の御名を呼びまつることです。それは、主イエス・キリストが御自身の生命を献げ、御血を流したもうてお建てくださった主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、礼拝者として、御言葉によって絶えず養われる新しい人生を歩む者になることです。それが「主の御名をよびまつること」であり、そして同時に「今の時を弁えること」なのです。そして、私たちがそのような神の僕になるなら、主の御名を呼びまつるなら、その人は必ず救われるのです。例外は無いのです。

 

ここで私たちは御一緒に、使徒パウロがコリントの教会に書き送った第二コリント書61節と2節に心を留めたいと思います。「(1)わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。(2)神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。ここにも例外のない救いの事実が宣べ伝えられています。それは、既に主イエス・キリストが私たち全ての者の罪のために十字架を担われ、ゴルゴタにおいて贖いの死を遂げて下さったからです。だから、キリストの御名を宣べ伝えることは、同時に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と言うほかはない救いの出来事の成就そのものなのです。

 

 それならば、私たちがいま弁えるべきこと(本当に知るべきこと)は、今がその救いの時だという事実です。神は私たちから遠く離れておられるのではないからです。そうではくて、神はまさにいまこの時、私たち一人びとりと共にいて下さいます。父・御子・聖霊なる救いの神は、私たちから絶対に離れることはありません。そして私たち一人びとりに明確に語り告げていて下さいます。「(54)あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。(55)それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。(56)偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」。

 

 主イエスはいま、私たちにはっきりと語り告げていて下さるのです。あなたこそは、私が十字架において贖い取ったその人である。あなたこそは、御国の民とされたその人である。あなたこそは、私が永遠の生命を与えたその人である。だから、恐れるな、勇気を出しなさい。今の時を弁える人になりなさい。あなたの救いは、いま来ているからだ。あなたの人生の全体を、私が共にいて祝福しているからだ。あなたは永遠に変わることなく、死を超えてまでも、私の愛と祝福の内を歩む人とされているではないか。そのように主ははっきりと、私たちに、あなたに、語り告げていて下さるのです。祈りましょう。