説    教                 創世記458節  ルカ福音書125153

                 「十字架による和解」 ルカ福音書講解〔131

                  2022・08・21(説教22341974)

 

 「(51)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。(52)というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、 (53)また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。聖書の、特に福音書の連続講解説教をしておりまして、ときどき本気で悩むことがあります。それは「この御言葉からどのような説教をしたら良いのか」と頭を抱えざるをえないような御言葉にしばしば出会うからです。まさに今朝のルカ伝1251節などはその一つであると思うのです。いわゆる「牧師泣かせの御言葉」です。

 

 主イエス・キリストはここに、たいへん否定的なこと、できれば私たちが聞きたくないことを語っておられるのではないでしょうか。「(51)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」。この最初の51節自体が既に、この現実世界と歴史全体に対する主イエスからの挑戦状のような響きを持っています。主イエスがこの世に来られたのは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂を引き起こすためだと語っておられるからです。そして具体的な例が52節と53節に挙げられています。「(52)というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、 (53)また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。

 

 いまから22年前に21世紀(いわゆる第三ミレニアム)が始まりましたとき、全世界において「この新しいミレニアムを平和と一致の世紀にしよう」という声が沸き起こりました。それは一つには、20世紀があまりにも悲惨な世界戦争の世紀として記憶されたからです。しかしそれから22年経ったいま、私たちは改めて慚愧の思いと共に「この第三ミレニアムも戦いと分裂の世紀として始まってしまった」と言わざるをえないのではないでしょうか。現在進行形の出来事を見ても、ロシアによるウクライナへの軍事的侵略や、数々の民族紛争や、イスラム過激派組織による暴力的な支配など、枚挙にいとまがないほど数多くの戦いや分裂が、この現実世界を覆い尽くしているのではないでしょうか。

 

 そのような現実のただ中にあってこそ、私たちの心に改めて強く、今朝の主イエスの御言葉が鳴り響くのです。「(51)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」。これは、どういうことを主イエスが語っておられるかと申しますと、主イエスは、このような現実世界の戦いや分裂を、ただ手をこまねいて傍観しておられるようなかたではないということです。さらに言うなら、主イエスは私たちの現実の中にある数多くの分裂や対立を、ただ単に傍観なさっておられるようなかたではないということです。そうではなくて、主イエスはまさに、私たちのただ中に不可抗力的に起こる数々の対立や分裂という現実に対して、常にイニシアティブ(主導権)を持っておられる救い主(キリスト=メシア)として、私たちといつも共にいて下さるかたなのだということが、今朝の御言葉によって力強く宣べ伝えられいるのです。

 

 言い換えるなら、こういうことです。主イエスは私たち一人びとりにいま、このように語っていて下さるのです。「あなたは現実の生活の中で、人間関係のただ中で、ときに家族や親兄弟や嫁姑の関係においてさえも、様々な対立や分裂を経験し、心が傷つき、悩み、うろたえ、意気消沈し、解決を見出せないでいるかもしれない。しかし、勇気を出しなさい。私があなたと共にいるからだ。私はまさに、この世界のあらゆる対立や分裂のただ中において、あなたと共にいて、あなたを最後まで堅く支え、導き、慰め、癒して、ついにはあなたを永遠の御国に入らしめるであろう」。

 

 さて、対立や分裂は、良いことか悪いことかと問われるならば、それは「良いことです」と答える人はおそらく一人もいないでしょう。特に私たち日本人は「和を以て貴しとなす」という7世紀の聖徳太子以来の文化的伝統の中にいますので、対立や分裂は「悪いこと」「あらずもがなのこと」だと無意識的にも思いこんでいます。しかし、本当にそうなのでしょうか?。もう天国に召されたかたですが、私の知っている一人の婦人があるとき、近所付き合いの中でリーダー的な存在になっていた女性から、特定の人を仲間外れにするように指示されたことがありました。こういうことは特に女性たちの付き合いの中ではよく起こることです。しかしその婦人は、そのリーダー格の女性の指示に従いませんでした。なぜなら、仲間外れにされていたその女性のことをよく知っていたからです。

 

 その結果、どういうことが起こったかと申しますと、彼女はリーダー格の女性とその取り巻きの女性たちから強く非難されたというのです。「あなたは地域社会の平和と秩序を乱す人だ」と言われたというのです。これは、どちらの視点に立つかによって全く見方が異なってくると思うのです。少なくともリーダー格の女性(まるで虐めっ子の主犯格のような女性)から見るなら、彼女のしたことは対立と分裂を引き起こすことに見えたでししょう。しかし一方で、仲間外れにされていた女性の立場から見るなら、彼女はまさに平和と一致を重んじる人に見えてに違いないのです。

 

 それと同じようなことが、私たちの人生にはそれこそ数限りないほど起こるのではないでしょうか。本当の平和と一致を実現しようとする人は、異なる視点を持つ他の人たちからは、対立と分裂をもたらす人のように見えるのです。それはちょうど、強い光が当たれば影の部分が際立つのに似ています。主イエス・キリストという「全ての人を照らす真の光」(ヨハネ伝19)によって、私たちの現実世界の影の部分が明らかにされるのです。そのことを主イエスは「(51)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」とおっしゃったのです。真の平和の使者は、罪人の目には、まるで分裂を引き起こす者のように見えるのです。

 

 今朝、併せて拝読した旧約聖書の創世記458節を心に留めましょう。「(8) それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました」。これは創世記の後半の主題であるヨセフ物語の一節ですが、ヨセフという人はまさに兄弟たちと対立し分裂して、数奇な運命に翻弄されるようにエジプトに行った人です。エジプトでヨセフは苦労に苦労を重ねまして、本当の信仰に目覚めていきました。そしてやがてエジプトの財務大臣になったヨセフは、かつて自分をエジプトに追いやった兄たちと劇的な再会を果たすのですが、そこでヨセフが兄たちに語った言葉がいまお読みした8節なのです。かなわち「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神です」とヨセフは語りました。

 

 これはなにを現わしているかと申しますと、主イエス・キリストが十字架によって、私たちの計り知れない罪を贖い、私たちを父なる神と和解させて下さった恵みを指し示すものなのです。すなわち、使徒パウロがエペソ書214節以下にこのように語っていることを指し示しているのです。「(14)キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、(15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、(16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである」。

 

 どうかこの16節に注目して下さい。「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」とあることです。ここには「和解」という言葉の語源にもなったギリシヤ語が用いられています。神の永遠の御子が(神と本質を同じくするかたが)私たちの罪のどん底にまで下ってきて下さって、十字架の死によって私たちの罪を贖い、私たちを神の国の民、天に国籍を持つ者として下さったことです。ここに、私たちに与えられた「十字架による和解」があります。ここに、私たちが主を通して戴いている救いの本質があります。その救いの恵みに根差して、私たちの新しい一週間の歩みがあり、死を超えてまでも主と共に生きる信仰の生活があるのです。祈りましょう。