説    教                ホセア書814節  ルカ福音書124950

                 「火は既に燃ゆるか」 ルカ福音書講解〔130

                  2022・08・14(説教22331973)

 

 「(49)わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(50)しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」。これはなんと、不思議な御言葉ではないでしょうか。私たちは普段、主イエスというかたは平和主義者だと思いこんでいます。その意味は、社会の中でいたずらにトラブルを起こしたくない、できるだけ多くの人たちと仲良く波風たたぬように生きていきたい、私たち日本人は無意識的にもそのような価値観をもって生きていることが多いものですが、それとは正反対のことを主イエスはここでおっしゃっておられるように感じるからです。

 

 たしかに、できるだけ多くの人たちと平和に過ごすことは大切なことかもしれません。私事ですが、私などは性格的に、人に対してあまり反対意見のようなことを言わないタイプの人間です。誰かと話をしていて、たとえ「ああ、それは違うなあ」と感じることがあっても、よほどのことでもない限りは、それを注意して指摘するということをしない、というよりもむしろ、余計な波風を立てたくない、そう感じて自制してしまうタイプの人間です。良いか悪いかというよりも、私はもともとそういう性格の人間なのです。

 

 30年ほど前に、富士教会に福田雅太郎という牧師先生がおられました。この福田先生というかたは、ご自身が正しいと信じたことについては絶対に妥協をなさらないタイプの牧師でした。あるとき、東海連合長老会牧師会の神学書の学びの中で、聖霊と教会の関係についての話になりました。ある一人の牧師が研究発表をされたのですが、彼の話を聞いていた福田先生の表情がだんだん険しくなってきた。それを私は感じていました。やがてその研究発表が終わるや否や、福田先生は立ち上がって、大きな声で「絶対に違う!」と叫ばれたのです。その剣幕に、私をはじめ居合わせた牧師たちはみなびっくりしてしまいました。それと同時に、私は「ああ、これでこそ福田先生だ」と感心したことでした。こうした点においては、私たちの葉山教会のかつての牧師先生であられた宮崎豊文先生も同様な姿勢のかたであったと思います。宮崎豊文先生も、正しいと信じたことに関しては絶対に妥協をなさらないかたでした。「然りを然りとし、否を否とする」先生でした。

 

 それは、まさに今日のキリスト者に欠けていることかもしれません。私たちは反省をしなければならないと思うのです。私たちは「然りであるが否と言い、否であるが然りと言う」ような煮え切らない態度で信仰生活をしていることはないでしょうか?。なによりも、今朝のこのルカ伝1249,50節において主イエスが明確に語っておられることに、心新たに耳を傾けなければなりません。「(49)わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(50)しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」。

 

 主イエスというかたは、この地上に(私たちの現実の生活のただ中に)まさに火を投じるために来られたかたであると言うのです。問題はその「火」とはいったい何かということです。火の本質は燃えることです。そして火は燃えることによって3つの役割を果たします。1)焼くこと、2)照らすこと、3)清めること、この3つです。では、まず1)火は焼く、について考えてみましょう。今朝、併せて拝読した旧約聖書のホセア書814節をもう一度読みたいと思います。「(14)イスラエルは自分の造り主を忘れて、もろもろの宮殿を建てた。ユダは堅固な町々を多く増し加えた。しかしわたしは火をその町々に送って、もろもろの城を焼き滅ぼす」。ここに記されていることは、主なる神は私たちが勝手に寄り頼んでいる偶像を焼き滅ぼして、私たちに真の自由と平和を与えて下さるかただということです。たとえその偶像が豪華な宮殿、賑やかな街であったとしても、それが罪の中にあるならばいっさいは虚しいのです。それよりも遥かに尊いのは、あなたが救われて神の国に入ること、あなたというたった一人の救いのほうが大事だということがここに示されているのです。

 

 次に、2)火は照らす、について考えてみましょう。バプテスマのヨハネはヨハネ伝19節において主イエスのことを「全ての人を照らす真の光があって、世に来た」と宣べ伝えています。罪の働きは私たちを闇の中に閉じ込めて、私たち自身と世界と人生の本質を見えなくさせてしまうことです。真っ暗闇の中にいる人間は自分の姿さえも見ることはできません。しかし主イエスがあのクリスマスの夜に、処女マリアをを通して、ベツレヘムの馬小屋の中で生まれて下さったことによって、私たちは初めて、私たちの本質を照らす真の光に出会うことができたのです。それと同時に、主イエス・キリストは、全ての人を照らす真の光であられるがゆえにこそ、私たちの罪の唯一の贖い主として、ゴルゴタの十字架への道を歩んで下さったかたなのです。キェルケゴールが語っているように「イエスは全ての人を照らす光であるゆえに、ご自身は全き暗闇の中を歩まれ、私たちに平安を与えて下さるために、ご自身からはいっさいの平安を奪われしかた」なのです。

 

 最後に3)火は清める、ということを考えたいと思います。主イエスご自身、その最も大きな答えとして、今朝の50節の御言葉を私たちにお語りになりました。「(50)しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」。ここで主イエスは「わたしには受けねばならないバプテスマがある」とおっしゃいました。これは十字架のことをさしているのです。私たちは自分のことは自分がいちばんよく知っていると思いこんでいますが、実は自分の罪さえも認識することはできない存在なのです。では、私たちはどうすれば罪を知ることができるかと言いますと、それは主イエスが私たちのために担って下さった十字架を見ること、信じることによってなのです。そのことをパスカルはパンセの中で「私たちはキリストの十字架においてのみ自らの罪を認識する。しかも、その認識は同時にキリストを唯一の救い主として知ることである」と語っています。

 

 ただキリストの十字架においてのみ、私たちは自分の罪を知るのですが、それは同時に、私たちの救いを知ることなのです。ですから、キリスト教においては自らの罪の認識と救い主を知ることは一つのことなのです。この2つの認識は切り離すことができないのです。十字架において、私たちは自分の罪を見ると同時に、自分の救いを見るのです。

 

 さて、最後に一つのことを心に留めて終わりましょう。それは、今朝の御言葉において主イエスが「火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」とお語りになったことです。この「火」はなにをさしているかと申しますと、それは私たちの信仰のことなのです。讃美歌331番に「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らず顔にあるべきかは」とございましょう。まさにそのとおりでありまして、私たちの罪を焼き滅ぼし、全ての人を照らす真の光として世に来られ、十字架において私たちの罪を贖って下さった主イエス・キリストを、私たちはただ漫然とお迎えするだけではないのです。私たちは十字架と復活の主イエス・キリストを「わが主、わが救い主」として信じ告白するのです。それが私たちが十字架の主イエス・キリストに対してなすべき信仰による応答です。その私たちの信仰という名の火が「すでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と主イエスは言われるのです。

 

 つまり、主イエス・キリストは、私たちに信仰の火を与えて下さるかたです。それは聖霊による出来事であり、私たちはいまここに、御言葉と聖霊によって現臨しておられる十字架と復活の主イエス・キリストの救いの御業にあずかり、罪を贖われて御国の民とならせて戴き、信仰による新しい生活、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、キリスト者として(キリストに贖われたる僕として)歩み続けて参ります。その信仰の志において、キリストの弟子たるの歩みにおいて、いつも健やかな群れであり続けて参りたいと思います。祈りましょう。