説    教         エレミヤ書291014節  ルカ福音書124148

                 「幸いなる僕」 ルカ福音書講解〔129

                  2022・08・07(説教22321972)

 

 「(41)するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。(42)そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。(43)主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。(44)よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう」。

 

 ここに主イエス・キリストは、忠実で思慮深い家令の譬えをお話しになっておられます。その家令は忠実な僕として、主人が留守の間、よく家を管理しているばかりではなく、自分と共に働いている他の僕たちのことをいつもよく考えて、彼らが喜んで働けるように常に気配りを忘れない、いわばマネージメントに長けた家令なのです。例えて申しますなら、昔の貴族の家庭にいた執事長(Butler)がそれに相当すると思います。バトラーというのは、たとえばイギリスなどでは大変に尊敬されていた職業でありまして、あるお屋敷で立派にバトラーが務まっていたということが、その人に対する無条件の信頼を意味したほどなのです。

 

 では、このような家令に求められていることは、どのような事でしょうか?。それは主人に対して忠実であることです。主イエスがなさったこの譬え話の中では、長期にわたって家を留守にしていた主人が描かれています。帰宅がいつになるかはわからないのです。しかし、主イエスは言われます、ある日突然、この主人が帰宅するというのです。そのとき、今朝の43節をご覧下さい。「(43)主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。(44)よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう」。

 

 主人がいつ帰宅しても、家令は忠実かつ誠実に与えられた自分の職務を遂行しているのです。そのような姿を主人に見られる家令は(僕は)なんて幸いなことだろうかと、主イエスは言われるのです。だから今朝の44節にはこのようにございます。「(44)よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう」。小さな日常の職務に忠実であったこの家令に、主人は自分の全財産を管理させるであろうと主イエスは言われるのです。まことに、このような僕こそ真に幸いな人であると主は言われるのです。

 

 それと同時に、その正反対の譬えをも、主は私たちにお示しになります。続く45節以下をご覧ください。「(45) しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、(46)その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。(47)主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。 (48)しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」。

 

 ここに示されているのは、主人が留守であることをいいことにして、自分の思いのままに利己的に振る舞い、自分の部下である他の僕や婢たちを「打ち叩き」そして自分はと言えば「食べたり、飲んだりして」酔っぱらっている、そのような悪しき家令の姿が示されています。これはようするに、主人に対して不忠実であり、自分の欲望に対して忠実であった家令です。この悪しき家令に対して、ある日帰宅した主人はどうするかと申しますと、彼を鞭打って懲らしめるというのです。しかしそこでも「知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」とあるように、あくまでも中心であるのは主人です。たとえ主人が留守であろうと、在宅であろうと、家令()に求められていることは、忠実であることなのです。

 

 さて、私たちはここまでご一緒に今朝の御言葉を学んで参りまして、改めて冒頭の41節に戻りたいと思います。「(41)するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」とあることです。ここでペテロが主イエスに訊ねていることは、ようするに、主よ、あなたが私たちに語っておられる説教は、一般論として聴くべきなのですか?それとも私たち一人びとりのこととして聴くべきなのですか?ということです。その答えは明らかでありましょう。主イエスはただの一度も一般論で説教を語られたことはありません。主イエスの御言葉(福音)は全て、いまここに集うている私たち一人びとりに向けられたメッセージなのではないでしょうか。

 

 つまり、私たちは、神の言葉を他人事として聴いてはならないのです。いつも、今のこの私たちに主が直接に語っておられる福音として、それを聴かなければなりません。まさにカール・バルトが語っているように、私たちは神の言葉の前で中立であることはできないのです。いつも応答を求められているのです。それはどういうことかと申しますと、私たちがキリスト者であるということは、私たちが教会員であるということは、いつも主の御前で、主が共におられる僕として、主に喜んで戴ける歩みをするべく招かれていることなのです。言い換えるなら、主イエスの“Real presence”を大切にするのがキリスト者なのです。神の御前に、神と共に、神の祝福と愛の内を歩み続けてゆく、本当の神の僕になることこそ、真に幸いなことなのです。

 

 石塚康子さんが天に召されてから早くも1年半が経ちました。私は石塚康子さんの葬儀の時に、集まった多くの方々にこういう説教をいたしました。「石塚康子さんのような、全てを献げて主にお仕えした人はもう現れないのかもしれない。しかし私たちはそれを自分の怠慢に対する言い訳にすることは止めようではないか。と申しますのは、私たちは石塚康子さんのようにはなれないかもしれない。しかし彼女の真似をすることはできるはずだからです。石塚康子さんの真似をして歩んでゆく、彼女の真似をして主の教会にお仕えする、そのような私たちになろうではないか」。私はそういう説教を葬儀においていたしました。ご記憶のかたも多いと思うのです。

 

 どうか改めて、私たち自身を顧みたいのです。一般論としてではなく、他人事としてでもなく、まさに主がいま、私たち一人びとりに語っておられる福音として、今朝の御言葉を聴いて参りたいのです。「(42)そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。(43)主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。(44)よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう」。

 

 私はいま、3年前に病のために天に召された私の友人、水野穣牧師のことをも思い起こしています。香川県の高松郊外の屋島教会の牧師であった彼は、直島教会の牧師をも兼ねていました。直島は今でこそ「芸術の島」という名目で観光開発されていますが、その島にある教会は120年の歴史を持っているにもかかわらず信徒はわずか3名でした。その直島教会の新会堂を建設するために、水野牧師がどんなに大きな働きをしたかは想像に余りあるものがあるのです。癌との戦いの日々において、水野君はあるとき私に言ったことがあります。「信徒がたった3人しかいないから、新会堂の建設は無意味だと言う人たちがいる。しかし3人であろうと1人であろうと、そこに御言葉を求める人がいる限り、どんなに小さくても主の教会がある限り、この建設は成し遂げられねばなないのだ」。

 

 ここにも、最後の最後まで、主に忠実であり続けた一人のキリスト者の姿があるのです。私たちはどうでしょうか?。今朝のこの御言葉を、一般論として聴いてよいのでしょうか?。答えは「否」であります。いままさに、ここに集うている私たち一人びとりに対して、主は懇ろに語っていて下さるのです。あなたは、どんなことがあっても、神の忠実な僕であり続けなさい。神の幸いな僕であり続けなさい。もし私たちがこの御言葉に対していまここで「アーメン、主よ信じます。どうか私をあなたの忠実な僕にして下さい」と祈るなら、応えるなら、私たちの全生涯を通して、主ご自身が限りない祝福の御業を世に現わして下さるのです。そして私たちは人生の終わりにも、主の御声を聴くに違いないのです。マタイ伝2521節です。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ=宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅かなる物に忠なりき、我なんぢに多くの物を掌どらせん。汝の主人の喜びにいれ」。祈りましょう。