説    教             詩篇13018節   ルカ福音書123540

                 「目覚めて主を待つ」 ルカ福音書講解〔128

                  2022・07・31(説教22311971)

 

 「(35)腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。(36)主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。(37)主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。(38)主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。(39)このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。(40)あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。

 

 ここに「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい」と主イエスは私たち一人びとりにお教えになっておられます。腰に帯を締めるとは目覚めていることの徴であり、明かりを灯すことは信仰に堅く立つことの徴です。つまり主イエスはここで私たち一人びとりに「あなたはいつも目覚めていて、信仰に堅くたつ人であり続けなさい」と教えておられるのです。それはなぜでしょうか?。36節以下にその理由が記されています。「(36)主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい」。大切なのはここに「主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき」とあることです。この「婚宴」とは何をさしているのでしょうか?。

 

 私たちキリスト教の教理的な伝統においては、婚宴とは主イエス・キリストが御自身の血をもって贖い、お建てになった主の教会における喜びの祝宴のことを意味しています。しかも、それは単なる喜びの祝宴であることを超えて、主イエス・キリストの贖いの恵みに堅く結ばれた主の教会の幸いを現わしているのです。そういたしますと、今朝のこの御言葉において「主人が婚宴から帰ってきたとき」とあるのは、主イエス・キリストが全世界の救いのための救いの御業を完成されて、喜びに沸き立つ私たちを(主を信じて待ち続けていた全ての人々を)迎えに来て下さる時のことを現わしているのです。主はそこで私たち全ての者に宣言して下さいます「私と共に喜びなさい、全世界の救いは完成したのだ」と。天国の喜び、神の御国の幸いに、私と共に与る人はあなたなのだと、主は力強く宣言して下さるのです。

 

 ところがどうしたことでしょうか?。そのような限りない喜びの音信を携えて私たちのところに戻ってきて下さる主イエス・キリストを、私たちはみんなで「腰に帯をしめ、明かりを灯して」お迎えするのかと申しますと、どうもそうではないようなのです。その大切な時に、なんと眠りこけてしまっている私たちの姿があるのではないか。腰に帯を締めるどころか、その帯を脱ぎ捨てて眠りこけている私たちであり、明かりを灯して主をお迎えするどころか、明かりを消して部屋を真っ暗にしてしまっている私たちの姿があるのではないか。本来ならば、主イエスは私たちにとてもわかりやすく語りかけて下さいます。今朝の37節と38節です。「(37)主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。(38)主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである」。

 

 主人に忠実な僕は、たとえ主人の帰りが遅くなったとても、たとえそれが真夜中になり、あるいは明けがた近くになったとしても、眠りこけてしまうことなどありえないのです。どんなに疲れていても、眠くなっても、腰に帯を締め、明かりを灯して主人の帰宅を待ち続けているのではないでしょうか。同じように、私たちの人生の中にも、大きな疲れを感じる出来事があります。いっそのこと眠ってしまいたいと思わせるような辛い経験をすることがあるのではないでしょうか。キリスト者の信仰の人生は特にそうだと言わねばなりません。主イエスは世の終わりに至るまで私たちといつも共にいて下さると約束して下さった。しかし私たちはしばしば心の内にこう呟くことがあるのです。「主はこんなに苦しみ、疲れ、眠くなっている私のことなど、忘れてしまわれたに違いない」と。

 

これはどういうことかと申しますと、ようするに私たちは、主イエス・キリストの恵みと救いの約束を疑いはじめ、主の御力を見下して過小評価し始めていることなのです。そして、信仰の生活に疲れを覚えるあまり、キリストの僕であることが無意味なことのように思いはじめるのです。それはちょうど、あのゲッセマネの園における弟子たちの姿に似てます。主は十字架におかかりになる前日、エルサレムを一望するゲッセマネの園で「私が祈っている間、あたがたも目を覚まして祈ていなさい」とおっしゃって、全世界の救いのために血の汗を流して祈られました。それにもかかわらず、主が弟子たちのところに戻って来られますと、なんと弟子たちはみな眠りこけていたのでした。たしかに弟子たちが疲れていたのは事実です。しかしそれよりも遥かに大きなことは、弟子たちが主と共に祈る生活を失ない、睡魔に身を委ねてしまったことでした。私たちはどうでしょうか?。私たちは主が祈っておられる間、いつも主がお命じになったように、腰に帯を締め、目を覚まして、明かりを灯して、祈り続けている生活をしているでしょうか?。

 

 どうか私たちは、今朝併せてお読みした旧約聖書の詩篇130篇の御言葉を改めて心を留めたいと思います。「(1)主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。(2)主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。(3)主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。(4)しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。(5)わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。(6)わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。(7)イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。(8)主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」。

 

 ここでイスラエルの預言者であった詩人は、少しも自分の力や知恵や忍耐力を誇ってはいません。「どうだ、私は他の者たちのように眠らなかったぞ」と言って自分を誇っているのではないのです。その逆です。この詩人は「(1)主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。(2)主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。(3)主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか」と祈りを献げています。そして彼のまなざしはひたすらに贖い主なる主に向けられています。6節以下です「(6)わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。(7)イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。(8)主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」。

 

 信仰とは、私たちが自分自身を頼みとする生活を離れて、キリストの恵みの招きに自分を委ねることであります。それはちょうど、ヴァイオリンやギターの中身が空洞であることに似ています。中身のぎっしり詰まったヴァイオリンやギターは音を鳴り響かせることはできません。それは空虚であるからこそ鳴り響くことができるのです。それと同じように、私たちは信仰に堅く立つことによってのみ、つまり主に対して空虚であることによってのみ、主の愛と恵みの鳴り響く楽器(人生)とならせて戴けるのではないでしょうか。だから、主を待ち望む新しい生活とは、いつも主の御言葉を聴きつつ養われてゆく礼拝者の生活です。この事はどんなに強調しても足らないほどです。帯を締め、明かりを灯して、目覚めて主を待つ生活とは、御言葉によっていつも養われ、導かれてゆく、礼拝者の生活なのです。だからこそ礼拝は大切なのです。

 

 今朝の御言葉、ルカ伝1235節以下をもう一度お読みして終わりましょう。「(35)腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。(36)主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。(37)主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。(38)主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。(39)このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。(40)あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。祈りましょう。