説    教             申命記768節   ルカ福音書123334

                 「我らの宝の在処」 ルカ福音書講解〔127

                  2022・07・24(説教22301970)

 

 「(33)自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。(34)あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。今日のこの主イエスの御言葉は驚くほどの力強い明確さで私たちの心に迫ってくるものです。特に34節に「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」と語られていることに対して、私たちは心底から納得せざるをえないのではないでしょうか。

 

昔から続くある素封家に、天井裏に全財産を隠していた人がいました。その人はもう毎日寝ても覚めても天井裏が気になって気になって仕方がない。毎日一度は天井裏を覗いてみないと気が済まない。そんなに気にしていた天井裏の隠し財産でありましたが、その人が病気になってしばらく入院をしていましたところ、その天井裏の隠し財産はほとんどネズミに齧られ、札束や証券類はネズミの巣になってしまっていたという話を聞いたことがあります。

 

 主イエスの御言葉のとおり、まさにそのままではないでしょうか。「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。本当にそのとおりでありまして、まさに私たちの宝物のある場所に、私たちの心もあるのです。それならば、私たちはどのような宝物を、どこに持っているかが、いつも問われているのではないでしょうか。私たちは天井裏に莫大な隠し財産を持っている人はいないかもしれません。しかしそれならば、どこに私たちの「財産」と呼べるものを持っているのでしょうか?。銀行でしょうか?。証券会社でしょうか?。

 

証券会社と言えば、私のところに、牧師館に、3日にあけずに証券会社から電話がかかってきます。私が電話に出て「牧師というのは貧乏なものですよ。お金なんかありませんよ」と申しても、それでもしつこく電話がかかってきます。よほど教会にはお金があると思っているらしい。困ったものでありますが、逆の意味で、では、私にとっての本当の財産と呼べるものはどこにあるのかと、改めて問われている思いがいたしました。まさにその時、私たちの心に鳴り響く主イエスの御言葉はまことに鮮やかです。今朝の33節です。「(33)自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。(34)あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。

 

 ここには「古びることのない財布」「盗まれることのない財産」「虫やネズミに齧られない財産」という言葉が明確に示されています。これはこの世の目に見える財産のことではないことは確かです。たとえば、皆さんもよく知っている奈良の正倉院、あれは1450年前に東大寺の大仏を建立した聖武天皇ゆかりの財宝を収蔵したものです。私は奈良が好きで、奈良に行く機会があるたびに必ず正倉院を訪れることにしていますけれども、これはいわば、天皇家の財産を収蔵した倉庫でありまして、勅封という非常に厳格な規則によって厳重に守られてきたものです。ところが1450年の歳月の間にかなり多くの財宝がが外部に持ち出され、その多くがそのまま行方不明になっているらしいのです。つまり、奈良時代の天平勝宝8(756)に記された財宝の納入表(国家珍宝帳)には記載があるものの、実物は存在していないものが数百点もあるというのです。それは調べてみると、どうも藤原鎌足、源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった、その時々の権力者たちによって少しずつ持ち出されたものらしい。文字通り盗難に遭ったものも少なくないそうです。勅封の正倉院でさえそうなのです。ましてや私たちがこの地上において隠し持つ財産などは、本当に儚く脆いものにすぎないのではないでしょうか。

 

 それならば、まさにそのような私たちに、主イエス・キリストははっきりとお語りになるのです。「(33)自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。(34)あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」と。ここで私たちが特に心に留めるべき御言葉は34節の「宝」という言葉です。これは物質的な財宝のことではないと申しました。物質的なものはどんなに価値があっても、歴史の流れの中でやがては過ぎ去り、滅び、形を失い、失われ、奪われ、消えてゆくものにすぎないからです。では、主イエスは何をもって私たちに、これこそが「宝」であるとおっしゃっておられるのでしょうか。このとても大切な御言葉を読み解くための鍵は、今朝併せてお読みした申命記76節以下の御言葉です。

 

 「(6)あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。(7)主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。(8)ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」。

 

 主なる神は私たち全ての者にはっきりとお告げになるのです、あなたこそ私の宝であると。ここに「宝の民」と訳された原文のヘブライ語はとても素晴らしい言葉です。それは「神の御前にかけがえのない唯一のあなた」という意味だからです。私たち一人びとりが「神の御前にかけがえのない唯一のあなた」とされている事実こそ、申命記76節が告げている驚くべき恵みなのです。「(6)あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」。しかも、私たちはと申しますと、私たちには、神に選んでいただけるような、優れた価値や能力があったからだというのではないのです。むしろ逆でありまして、続く7節にはこう告げられているのです。「(7)主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」。そして極めつけが最後の8節です。「(8)ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」。

 

 ただ神の永遠なる愛と、その愛に基づく誓い(契約)のみが、私たちが「宝の民」とされたことの唯一の根拠であるというのです。私たちに与えられた救いと恵みと祝福には、それ以外のいかなる根拠もないのです。逆に言うなら、それは私たち自身の中に全く根拠を持たない救いと恵みと祝福なのです。私たちが「宝の民」とされていることは、ただ神の一方的な無限の愛と、その愛に基づく契約によるものなのです。

 

 そういたしますと、今朝の御言葉の結論が見えてくる(わかってくる)のではないでしょうか。今朝のルカ伝1233,34節の御言葉が私たちに鮮やかにさし示しているものは、十字架の御子イエス・キリストの十字架と死と復活という「新しい契約」に基づく私たちの救いそのものなのです。つまり、私たちがなんの値も無きままに、あるがままに、神の「宝の民」とならせて戴いている事実です。それならば、神ご自身の永遠の御心が私たちという「宝の民」に、いつも豊かに注がれているのではないでしょうか。今朝の説教題を「我らの宝の在処」といたしましたが、それは逆に言うなら「主なる神の宝の在処」なのです。それは永遠なる御国です。神の御心がいつも行われ、失われた全てのものが回復され、全ての苦しみ悲しみが永遠の喜びに変えられ、主を信ずる者たちが永遠の生命に甦る場所です。

 

 ある姉妹がおられました。交通事故で最愛の娘さんを亡くされたかたです。この姉妹が、あるとき、私にこう言われました。「先生、ルカ伝1234節の意味が、ようやくわかりました」。それはなぜかと言いますと、最愛の娘さんが天の御国に移されたからです。そうすると、この姉妹の心もいつも天の御国にあるものに変えられたのです。いつも天の御国を思う心に変えられたのです。そこに、もっとも大切な宝があるからです。私たちも同じではないでしょうか。天の永遠なる御国にこそ、私たちの最も大切な宝があるのではないでしょうか。

 

だからこそ、私たちもまた「天に国籍あるもの」として、与えられた人生の日々を、この歴史の中を、歩み続けてゆくのです。そして、やがて主が、この天と地をひとつになして下さる日が来るのです。全世界に、全歴史に、救いを完成して下さる日が来るのです。私たちはどうか、その日を待ちつつ、急ぎつつ「アーメン、主イエスよ、来りませ」マラナタと祈りつつ、与えられた人生の日々を、キリストの僕として歩み続けて参りたいと思います。私たちこそ、あなたこそ、「神の宝の民」とされているその人なのですから。祈りましょう。