説    教             詩篇3489節   ルカ福音書123132

                 「ただ御国を求めよ」 ルカ福音書講解〔126

                  2022・07・17(説教22291969)

 

 「(31)ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。今朝私たちに与えられたこのルカ伝1231,32節の御言葉は、私個人にとりましても、とても思い出のある御言葉のひとつです。と申しますのは、私はこの御言葉によって洗礼を受けることを決意したのです。それは私が16歳の時のことでした。なによりも私は「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」と告げられていることに大きな慰めを与えられました。これは言い換えるなら、私たちが救われることを、なによりも主なる神ご自身が御心としていて下さる、切なる願いとしていて下さるのだということです。

 

 私たちは普通、人間の救いと言うものは、人間自身の願い求めによって引き起こされるものだと思っています。逆に申しますなら、私たちが願い求めを(仏教的に申しますなら発願を)起こさない限りは、私たちは自分の救いと言うものはありえないのだと考えています。これはようするに、救いを願い求める私たちが主であって、神がその発願に応じて救いを与えて下さるのだという考えかたです。それは別の言いかたをいたしますなら自力本願でありまして、いわば人間を主(中心)とした救済論になるわけです。それで、高校生の時の私も自分の救いをそのようなものとして理解していました。まず自分が救いへの願いを表明することが大事だ、それが救いに至る正道であると、そのように理解をしていたのです。

 

しかし、そこで問題となったことは、救いへの願いを表明する自分というものが、いかにも頼りない存在であるという事実でした。たとえば、当時の私は聖書を少なくとも10回は通読していました。口語訳だけでは足らずに文語訳で聖書を読み、さらに欽定訳の英語の聖書を読み、ドイツ語を自分で独学してルター訳の聖書まで読み、さらにギリシヤ語で読もうとして、さすがにそれはまだ高校生でしたからあえなく挫折しましたけれども、とにかく、そのような真面目な求道生活をしておりました私は、一所懸命に聖書を読めば読むほど、自分というものが本当に頼りない、小さな、そして何よりも、罪人にすぎないということを身に染みて感じていたのです。だから「洗礼を受けたい」という気持ちと「まだまだ自分には洗礼を受ける資格などない」という両極端の気持ちが交差していたのです。

 

 それはたしか私が高校2年生の夏休みでしたから、暑い8月のことだったと記憶していますけれども、ある日曜日の礼拝において、牧師先生が(森下徹造という先生でした)今朝のこのルカ伝1231,32節で説教をなさったのです。どこの教会でもそうですけれども、礼拝の中で必ず聖書の御言葉そのものが朗読されます。「(31)ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。この御言葉が朗読された瞬間に、高校生であった私の心の中に、大きな慰めと平安が広がってゆくのを感じました。「そうか、そうだったのか!」と思ったことでした。私が洗礼を受けることは、私が救われて神の御国に入ることは、それは私の願い求め以上に、神ご自身の御心なのだと改めて示されたのでした。それで、私はその礼拝が終わってからすぐに森下先生に「私は洗礼を受けたいのです」と申し出ました。森下先生は私に「その願いは神ご自身が君に与えて下さったのです」と言われました。いまでも昨日のことのようにその場面を覚えています。

 

 いささか、自分の過去の思い出を語りすぎたかもしれません。しかし、どうか覚えておいて戴きたいのです。真面目な人ほど「自分は救いに相応しくない」と思いこんで悩むのです。例えて言うなら、美味しいご馳走を前にして「自分はこのご馳走を戴くのに相応しくない」と言って食べようとしない人のようなものです。大切なのは、その御馳走を食べてほしいと思って作ってくれた人の心ではないでしょうか。その心を思うならば、私たちがなすべきことは、喜んで、感謝して、そのご馳走を戴くことだけなのです。しかし、私たちはまことに愚かにも、主なる神に対して「いいえ、こんなご馳走を私は戴く資格などありません」と頑なに言い張って、神の御心を無碍に断っているのではないでしょうか。

 

 それならば、まさにそのような私たち一人びとりに、主イエスははっきりとお語り下さるのです。「(31)ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。ここで主イエスは「ただ、御国を求めなさい」とお教えになっておられます。複雑な現代社会において、私たちは日ごろ、あまりにも多くのものを求めて生きているのではないでしょうか。いまは3連休中ですが、例えばレジャーにしてもそうです。どのように自分を、家族を、楽しませるか、遊ばせるか、余暇をどのように過ごすべきか、私たちの身の回りにはそれこそ無数の選択肢があるわけですけれども、しかしそれにもかかわらず、私たちの生活は少しも自由にはなっていないのではないか。人生における選択肢が多くあることと、自由を感じることは必ずしも一致しないのではないでしょうか。

 

 一度かぎりの、かけがえのない人生なのです。人生70年、80年、90年、100年といたしましても、それは宇宙の営みの中では一瞬の光芒に過ぎません。それならば、時間は無駄にはできません。禅の言葉に「生死事大無常迅速」というものがありますが、それこそ人間にとって生と死にまさる大問題は無く、しかも時の流れは驚くほど速いのですから、優先事項を忘れてはいけないと思うのです。人生におけるプライオリティを弁えていなければならないと思うのです。それを主イエスは今朝の31節において「ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう」とはっきりと宣言して下さるのです。

 

今朝、併せて拝読した旧約聖書・詩篇348,9節に、このようにございました。「(8)主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。(9)主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである」。この詩を歌っている古代イスラエルの詩人である預言者は、乏しいことがたくさんあったにちがいないのです。しかし彼は言うのです「主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである」と。この「恐れる」とは信じて従うことです。神を信じて従う者の人生を、神はなんと豊かな祝福をもって満たして下さることだろう。それは他の何物によっても替えることのできない「かけがえのない祝福と幸い」であると詩人は告白しているのです。だからこそ8節にはこう歌っています「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである」。

 

 では、主イエスが言われるこの「ただ御国を求めなさい」とは具体的にどういうことなのでしょうか?。この「御国」と訳された元々のギリシヤ語は「神の御支配」という意味を持っています。ですから「ただ御国を求めなさい」とは「あなたはただ神の御支配を求めなさい」という意味であり、さらに申しますなら「あなたの人生全体が、神の御支配のもとにあることを第一に求めなさい」とうことなのです。それはとても具体的なことです。キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、礼拝中心の生活をすることです。キリスト教の大きな特徴は教会を中心とした新しい生活にあります。それは、教会は十字架と復活のキリストの御身体であり、私たちは主の御身体に繋がることによって新しい生命(永遠の生命)に生きる神の僕とならせて戴けるからです。

 

 私の恩師であった竹森満佐一先生がハイデルベルク信仰問答の連続講義(これは私が受けたあらゆる講義の中で最高のものでした)の中で、こういうことを言われたのを思い起こします。それは、昔の中国の長老教会の教会員は(たぶん竹森先生が生まれた大連のキリスト者のことだと思いますが)日曜日のことを「礼拝」と呼んでいたというのです。月曜日のことは「礼拝一」火曜日は「礼拝二」水曜日は「礼拝三」と呼んでいたと言うのです。それは、一週間の全ての日が礼拝を基軸としたものであることを示すためです。そして日曜日は主日すなわちキリストの復活の日でありますから、一週間の全ての日、ひいては私たちの全生涯が、キリストの十字架と復活の恵みの上に成り立っていることを示すためです。私たち日本のキリスト者もこの伝統を受け継いでよいのではないでしょうか。

 

 どうか今朝の御言葉を心に刻んで、新しい一週間を神の僕、御国の民として、心を高く上げて歩んで参りたいと思います。「(31)ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。祈りましょう。