説    教           詩篇139112節   ルカ福音書122830

            「神は全ての必要を満たしたもう」ルカ福音書講解〔125

                  2022・07・10(説教22281968)

 

 「(28)きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(29)あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。(30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」。私たちは主イエス・キリストがお語りになったこの御言葉を聴いて、心の中にどのような印象(感想)を抱くでしょうか?。素直な気持ちでこの御言葉を聞いて「ああ、これはとても良い言葉だ」と感じる人もいるでしょう。あるいは「こんなことを言われたって、現実の私の生活は少しも楽にならない」と感じる人もいるかもしれません。それは人それそれではないかと思うのです。

 

 私たちがこの御言葉についてどのような感想を抱くにせよ、大切なことは、主イエス・キリストはいまここに聖霊によって現臨しておられ、私たち全ての者にまさにいま、この御言葉をお語りになっておられるという事実です。そのとき、私たちの心にまず引っ掛かりますのは、28節の終わりにある「ああ、信仰の薄い者たちよ」という御言葉です。私たちは常日頃、自分自身を欠けのない立派なキリスト者であるとは感じていないかもしれません。しかし改めて主イエスの御口から「ああ、信仰の薄い者たちよ」と聞きますと「そんなこと言われなくったってわかっていますよ」というような、主イエスに対して愚痴のひとつも言いたくなるというのが正直なところなのではないでしょうか。

 

 では、この「信仰の薄い者たち」とはどのような意味なのでしょうか?。意外に思われるかもしれませんが、実はこの御言葉のもともとのギリシヤ語を直訳しますと「信仰が多い者たち」という意味になるのです。ようするに「信仰がたくさんある」という意味の言葉なのです。これを旅人に譬えて申しますなら、たくさんの分かれ道の前に立って、どの道を進んだらよいのかわからなくなっている旅人のような状態、それがこの「信仰の薄い者たち」という言葉に表された私たちの心の状態であると言えるでしょう。

 

 そうすると、どういうことになるのでしょうか?。実は神の御目に映った私たちの姿というものは、神にのみ信頼して歩むようにと召し出されながら、実は神以外のいろいろなものに目移りし、心変わりがして(たくさんの信仰があって)どの道を進んだらよいのかわからなくなって、立ちすくんでいる状態だと言えるのではないでしょうか。大切なことは、主イエスは、それこそが私たちの乏しさの根本原因なのだと断言しておられることです。「(28)きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(29)あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。(30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである」。

 

 ここで主イエスがおっしゃる「異邦人」とは「神を信じていない人」のことです。つまり「信仰が多い人」は「神を信じていない人」と同じだと主イエスはおっしゃるのです。逆に言うなら、信仰はたとえ辛子種一粒のようなものであっても良い、私たちがその辛子種一粒のような小さな信仰をもって一意専心余念なく神に拠り頼むならば、神は必ず(絶対に)私たちに必要なものを与えて下さる、私たちの必要を満たして下さる、そういうおかただということを、主イエスはここで明確に語っておられるわけです。そうではなくて、父なる神は私たちに必要なものを全てご存じでいて下さるではないか。それが今朝の御言葉の最後にある「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」という御言葉です。つまり「信仰が薄い者たち」とは、父なる神が私たちに与えて下さるものを知ろうともせず、他のものに拠り頼んで勝手に満足してしまう者たち、という意味です。私たちはどうでしょうか?。私たちはそのような者たち(信仰の薄い者たち)になっていないと断言できるでしょうか?。

 

 ここで私たちは心新たに「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」という主イエスの御言葉を聴きたいと思うのです。この「(父なる神が)あなたがたに必要なものをご存じでいて下さる」とは、ただ単に神が私たちの欠乏を補い満たして下さるかただ、という意味ではありません。そうではなくて、ただ父なる神のみが、私たちに何が最も必要であるかをご存じでいて下さるのです。つまり、ただ神のみが、私たちの本当の求めを(願いを)知りたまい、私たちにとって真に必要なものをご存じでいて下さるのです。逆に言うなら、私たちは自分にとって最も必要なものが何なのかを、よくわかっていないことのほうが多いのではないでしょうか。私たちは、自分のことは自分がいちばんよく知っていると思いこんでいます。それにもかかわらず私たちは、自分にとって何が本当に必要なのかをほとんど全く理解していないのではないでしょうか。

 

 例えて言うなら、私たちは薬について全く無知であるのにもかかわらず、手当たり次第に薬を欲しがる病人に似ているのです。自分の病気を治すためにどの薬が有効であり、逆にどの薬が有害なのかを知らないまま、手当たり次第に薬を欲しがる病人がいたとしたら、それはとても愚かな、浅はかな姿でありましょう。しかしまさにその愚かで浅はかな病人の姿こそ、私たちの偽らざる姿そのものなのではないでしょうか。ただ主なる神のみが、私たちに必要なものを全てご存じでいて下さるのです。そして、神は私たちに必要だと思われる全てのものを必ず、私たちに豊かに与えて下さる、備えて下さるおかたなのです。それこそが主イエスの言われる「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」という御言葉の意味なのです。そこにはいっさいの例外はないとさえ主イエスは断言して下さるのです。神はあなたに必要なすべてを、必ず豊かに与えて下さるかたである。改めて今朝の御言葉を心に留めたいと思います。「(28)きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(29)あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。(30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」。

 

 ですからこれは、経済的な豊かさや貧しさの如何を問わず、全ての人に対して主イエスがいま語っておられる福音なのです。たとえどんなに経済的に豊かであったとしても(もちろん貧しくても)私たちに決定的に欠乏しているものがあるからです。私たちが心の底から求めてやまないものがあるからです。それは何かと申しますと、真の唯一の神を知ることです。私の同級生に吉村君という人がおります。東大の工学部を出てから神学校に入った人で、現在品川教会の牧師をしているのですが、この吉村牧師がある時、東海連合長老会の日曜学校教師修養会で語った言葉に、私はとても心動かされました。彼はこのように語ったのです。「私たち全ての者にとって、心の底からの本当の願いは、真の唯一の神を知ることなのです」。私は、それは本当にその通りだと思います。私たち全ての者にとって、心の底からの本当の願いは、真の唯一の神を知ることなのです。

 

 その真の唯一の神は、私たちの救いのために、独子イエス・キリストを世に賜い、御子イエスの十字架の死によって私たちの罪を贖い、真の生命を与えて下さったかたなのです。そして私たちを御子イエス・キリストの復活の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に招き入れ、御国の民として下さり、罪の赦しと永遠の生命を与えて下さいました。ルターは主イエス・キリストによるこの救いの出来事を「新しい創造」と呼びました。天地宇宙の創造にも較べるべき素晴らしい救いの御業を、私たちに豊かに与えて下さった父なる神は、私たちに必要なその他全てのものをも、必ず与えて下さるのです。否、必ず与えて下さらないはずがないではないか。そのように主イエスは語っておられるのです。

 

(28)きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(29)あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。(30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである」。祈りましょう。