説    教              ヨブ記1279節  ルカ福音書122227

                  「思い煩うな」 ルカ福音書講解〔124

                  2022・07・03(説教22271967)

 

 「(22)それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。(23)命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。(24)カラスのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それなのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。(25)あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。(26)そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。(27)野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。

 

 主イエスは弟子たちと、聞く者すべてに、そして何よりもここに集うている私たち全ての者に「思い煩うな」とお教えになります。それは今朝の御言葉の22節に出てくる言葉ですけれども、実は今朝の22節から27節までの全体が「思い煩うな」という主イエスの御教えで貫かれていることがわかります。まず最初に、主イエスは22節において「(22)それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。(23)命は食物にまさり、からだは着物にまさっている」とお教えになります。私たちの日常生活の中での悩みのほとんどが、実は現実の生活での出来事に由来しているのではないでしょうか。まさに主イエスが言われるように「何を食べようか」「何を着ようか」ということが、日常生活の全体を現わしているのです。

 

 それならば、主イエスは、まさに私たちが日常生活のただ中で経験するありとあらゆる「思い煩い」に対して、あなたは「思い煩うな」と告げておられるのです。さらに言うなら、これは弟子たちに対して語られた御言葉なのですから、主に従う弟子たち、主を救い主と信じる者たちだけが、あらゆる「思い煩い」から自由であることができると宣言しておられるのです。

 

 この「思い煩い」という言葉を、新共同訳聖書では「思い悩み」と訳してしまっています。これは、とても残念なことです。「思い煩うな」というのと「思い悩むな」と言うのとでは、言葉の響きだけではなく、その内容的な意味も大きく違うのではないでしょうか。つまり、主イエスが私たち一人びとりに「思い煩うな」と言われるとき、それは単に私たちの心の中にある悩み事(つまり私たちの心の状態、心の持ちかた)だけを言われたのではなくて、むしろ、私たちの存在を虚無へと引き込み、私たちを罪の支配下に置こうとするあらゆる「暗い権威」に対して、あなたはもはやそれに支配されることはない者とされているのだと宣言して下さっているのです。

 

 さて、今朝のこの「思い煩い」ということについて、竹森満佐一先生は、40年ほど前に吉祥寺教会でなされた説教の中でこのように語っておられます。「われわれの考えはいつも悲観的になっているのです。つまり心配症なのです。なぜそうなってしまうのか。それはわれわれが神に信頼しきれないで、どこかで自分の考えに固執しているからではないでしょうか。人間に運命というものがあるかどうかは別として、もしも、われわれの生活が宿命的であるとすれば、それは、われわれの考えかたが宿命的なのです。…よく、犯罪をおかす人というのは、手口が決まっていると言われます。警察では、その手口のカードを手繰ってみると、大抵その人だということになるらしいのです。一度それでしくじったら、やめたらよさそうなのに、やっぱりその手口でしかやれないものらしいのです。そのように考えかたが宿命的に決まってしまっている。そうすると、その人の生活がいつでも決まった方向にしか向かって行かないということになるのです」。

 

 これはとても厳しい言葉ですが、私たちの生活においても思い当たることがあるのではないでしょうか。自分で自分の首を絞めているようなことが、私たちにも多いのではないでしょうか。いわば、自分で自分の宿命を定めてしまっているようなことが、私たちの生活の中にもあるのではないでしょうか。

 

 そういたしますと、主イエスが言われる「思い煩い」の輪郭がわかって参ります。それは、私たちがいつのまにか、自分自身の固定化した考えかたに囚われてしまうことです。その原因はいろいろな気苦労、それこそ新共同訳聖書が語る「思い悩み」でありましょう。しかしその気苦労(思い悩み)は単に心の中の状態であるに留まらず、私たちの行動様式までも規制するものなのです。キリスト教の大きな特徴は運命を信じないことです。運命(Fate)を否定して摂理(Providence)を信じることにキリスト教の大きな特徴があります。しかし私たちはキリスト者でありながら、つまり、キリストの弟子たちでありながら、いつのまにか日常生活の中で運命論的なものの考えかた、あるいは宿命論的な価値観を持ってしまっていることはないでしょうか。そうだとすれば、それこそが主イエスが言われる「思い煩い」の正体なのです。

 

 このことをさらに申しますと、それこそ今朝の御言葉で主イエスが語っておられるように「(24)カラスのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それなのに、神は彼らを養っていて下さる」。あるいは「(27)野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。という事実に向き合うことになります。一羽のカラスや一本の野の花にはあって、私たちにはないものとは何でしょうか?。主イエスはそれこそ、主なる神に対する全き信頼であると言われるのです。私たちはと言えば、私たちはカラスや野の花とは真逆の生きかたをしてしまっているのです。それは、主なる神に信頼せず、神の御言葉によって生きようとはせず、自分を中心とし、自分を頼みとし、最終的には自分自身を神にしようとする生きかたです。

 

 その意味では「明日のこと」もそうなのです。もちろん、私たちはいろいろな計画を立てたり、これを使用、あれをしようと思うわけですが、よく考えてみて下さい、明日のことは、私たちがどんなに思い煩ったからと言って、自分の完全な支配下に置くことはできないのです。つまり、これを敷衍するなら「私たちの人生の主は私たちではない」「あなたの人生の主はあなたではない」ということになるのです。そうではなくて、私たちの人生が真の主を必要としているのです。そして、私たちが「明日のこと」においてさえも真の唯一の主を知り、そのかたを信じる者となるならば、私たちはどんなに数多くの思い悩みに取り囲まれていようとも、もはや「思い煩う」ことは無くなるのではないでしょうか。自分を主とすることは無くなるのではないでしょうか。まことの主を知り、信じと従うこと、そこにこそ、私たちがあらゆる「思い煩い」から自由にされる唯一の道があるのです。

 

 終わりにひとつ、特に今朝の26節について、たいへん興味ぶかく思いますことは「そんな小さな事さえできないのに」というイエスの御言葉です。私たちにとって自分の寿命をわずかでも延ばすことは、決して小さな事などではなく、それ以上に大きな「思い煩い」はないとさえ言えるでしょう。一日でも長く生きられるなら、どんなにお金をかけても惜しくないと思うのが、私たちの偽らざる姿です。それにもかかわらず、主イエスは「そんな小さな事」と言われる。それは主イエスの御目から見れば「そんな小さなこと」なのです。それは逆に申しますなら、神がどんなに大きなかたかということを示しています。つまり、神のみがあなたの永遠に確かな唯一の贖い主、救い主であられ、変わらぬ唯一の主であられる、ということを示しているのです。

 

 いささか季節はずれですが、私たちはここで、天使ガブリエルから受胎告知を受けたときのマリアの姿を思い起こします。天使ガブリエルがマリアに「恵まれた女よ、おめでとう」と言い、聖霊による受胎を告知したとき、マリアはとても大きな不安を感じました。しかし最終的にマリアは申しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と。これは英語で申しますなら “May it be my life, as you say.” です。まさにあなたのお言葉どおりに、私の人生に実現しますようにと、マリアは応えたのでした。私たちも同じように答えて生きる、主の僕たる人生を歩む一人びとりとされています。このことを覚えつつ、喜びと感謝をもって新しい一週間を歩んで参りましょう。「思い煩うな」との主の御声に応えて。祈りましょう。