説    教             ダニエル書71314節  ルカ福音書1269

                  「人の子イエス」 平塚富士見町教会にて

                  2022・06・26(説教22261966)

 

(6)五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。(7)それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。(8)言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。(9)しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。

 

 主イエスの時代のイスラエル、つまり2000年前のイスラエルに、ひとつの安売りの言葉(掛声)がありました。それは、市場で雀が売られているとき、2羽で1アサリオンという値段が相場でした。(1アサリオンは今日の日本円に換算するとだいたい30円ぐらいです)しかし4羽買うと2アサリオンのところを1羽おまけしてくれて5羽になったらしいのです。それは当時のユダヤ人なら誰もが知っていた市場の安売りの掛声でした。つまり、今朝の御言葉において主イエスがお語りになった「(6)五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」というのは、市場などで普通に聞くことができた安売りの決まり文句だったわけです。

 

 この雀売りの商人の決まり文句を引用なさって、主イエスはさらにこのようにおっしゃるのです。「(6) だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と。市場で5羽で2アサリオン(60)で売られている大安売りの雀、しかしその1羽さえも「神がお忘れになるようなことはない」。日曜学校で歌われている「こども讃美歌」の中に「スズメや鳩を、お育てなさる、恵みの神を、ともに歌おう」という歌詞があります。その原作者は「失楽園」の著者として有名なイギリスのジョン・ミルトンですけれども、その歌詞の元になった聖書の御言葉が、今朝のこのルカ伝126節以下なのです。

 

 そして、そこでこそ主イエスは、私たち一人びとりにこのようにお語りになります。今朝の7節です。「(7)それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。私たち自身のことを、その髪の毛の数でさえも、私たちにまさって遥かによく知っていて下さるかたがおられるのです。私たちは「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」と思いこんでいます。しかしそれは大きな間違いです。私たちは自分のことが一番わからないのです。ましてや他人のこともわからないのです。そのような私たちが、主なる神のことを「私のことを完全に知っておられるかた」として知ることを許されているのです。すると、どういうことになるのでしょうか。まさにこの7節で主イエスが語っておられることは「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という福音の音信です。この「恐れるな」とは御言葉による真の自由への招きです。

 

 神は5羽で2アサリオンで安売りされている雀の1羽さえも御心にかけていて下さる。それならば、神はあなたのことを、そのような雀よりも遥かに御心にかけていて下さるのは確かな事実ではないかと、主イエスは言われるのです。この場合の「御心かけていて下さる」というのは、ただ単に私たちの存在と生活について心配をして下さる、というだけの意味ではありません。そうではなくて、主なる神は私たちを、いつも唯一のかけがえのない人格(世界で唯一のあなた)としてとりあしらっていて下さる、という意味です。いま全世界に70億人ぐらいの人間がいると考えられていますが、たとえこの全世界に何十億の人間がいましょうとも、神はあなたのことを唯一絶対のかけがえのない存在として限りなく愛して下さるかたなのです。

 

そして神はなによりも、その極みなき愛のゆえにこそ、私たちの罪を放任なさらないのです。罪とはわかりやすく言うなら「神の外に出てしまうこと」です。それならば、まさに神の外に出てしまった私たちを、御子イエス・キリストの十字架によって、神ご自身が神の外に出てまでも救って下さるかたなのです。神は神なき者の神であり、罪人の贖い主であり、神の外に出てしまった者を、神の外に出てまでも訪ね求め、これを見出し、必ず救って下さるかたなのです。

 

 まさに、そのような意味を持つ今朝の御言葉だからこそ、続く8節と9節の御言葉を主イエスは私たちにお語りになるのです。「(8)言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。(9)しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。これは、ときどき誤解されるのですが、主なる神は私たちのことを髪の毛の数まで知っていて下さり、御心にかけていて下さる、だから私たちもそのお返しとして、いつも神様のことを忘れずにいようではないか、という意味の御言葉ではないのです。そういう意味の御言葉ではありません。

 

 そうではなくて、この8節と9節の御言葉の中心は「人の子」という言葉にあるのです。今日の説教題を「人の子イエス」といたしました。それは「イエスは人間にすぎない」という意味の言葉ではありません。むしろその正反対でして、聖書で「人の子」と言うとき、それは旧約聖書のダニエル書に記されたメシア(キリスト)のことをさしているのです。つまり、この8節で主イエスは御自身のことを預言者ダニエルが指し示しているメシア(キリスト=救い主)であると語っておられるわけです。それならば、そこで私たちに求められているものは、なによりもキリストに対する信仰告白ではないでしょうか。つまり「ナザレのイエスはキリスト=救い主である」という信仰告白です。それを今朝の御言葉は私たち一人びとりに求めているのです。その意味で申しますなら、キリストへの信仰告白というのは、キリストが私たちの救いのためになして下さった事柄に対する私たちの応答なのです。

 

 どういうことかと申しますと、御子イエス・キリストは、特にその十字架と復活と昇天によって、罪人のかしらであった私たちを、まさにその罪あるがゆえにこそ限りなく愛し、これを訪ね求め、見出して、私たちの罪を一身に背負って、黙って十字架への道を歩んで下さったかたなのです。そこにこそ、私たちに対する神の愛が現れているのです。主イエスの弟子の一人であったペトロは、このようなキリストの限りない愛を知りながら、主が十字架におかかりになる直前、恐怖心を起こしまして、3度も主を「知らない」と言いました。自分はあんな人とはなんの関係もないと3度、いわばキリスト告白を否認した、キリストの愛も御業をも否定したわけです。

 

 そのペトロに対して、主はどうなさいましたか?。「私はお前のようなヤツなんか知らない。この恩知らずの裏切り者めが!」と言いたもうたのでしょうか?。そうではありませんでした。そうではなくて、主イエスはペトロがご自分を3度も否認した罪を赦して下さったのです。「ヨハネの子シモンよ、あなたは私を愛するか?」と3度もペテロに訊ねて下さり、ペトロが心から喜んで「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのを待っていて下さったのです。まさにその赦しと召命から、ペトロの新しい使徒としての人生が始まっていったのです。

 

 私たちも、全く同じではないでしょうか?。主イエス・キリストはいま、聖霊によって私たちに現臨して下さり、そして訊ねていて下さいます。「あなたは私を愛するか?」と。私たちはその主の問いに対して、いま信仰をもってお答えする者たちでありたいと思います。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。だからこそ、この限りない恵みの御言葉に基づいて「(8)言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」と、主は私たち一人びとりにいま語っていて下さるのです。あなたこそその人なのだと宣言して下さるのです。

 

 もちろん私たちは9節にある「(9)しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」という厳しい御言葉をも忘れてはなりません。しかしなによりも、その厳しさは、主ご自身があのゴルゴタへの道において担い取って下さったものなのです。主は御自身の十字架と復活の恵みによって、いま私たち一人びとりを、主の御名を拒んで罪によって滅びる者ではなく、主の御名にのみ全世界の救いがあると信じ、告白する主の僕、主の弟子、主の教会の枝としていて下さるのです。祈りましょう。