説    教            詩篇491617節  ルカ福音書121316

                 「本来無一物」 ルカ福音書講解〔122

                  2022・06・12(説教22241964)

 

旧約聖書のヨブ記120節以下に、全てを失ったヨブが神に向かって祈りを献げた、その祈りの言葉が記されています。「(20) このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、(21)そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。ここでヨブは、自分は何も持たずに生まれてきたのであるから、再び何も持たずに死ぬだけのことだと語っているのです。そして「主の御名はほむべきかな」と神を讃美しています。これは旧約聖書の義人ヨブの祈りとしてとても有名な御言葉の一つです。つまりヨブはここで「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」ということを、全ての人間存在の本質であると同時に、なによりも、神が与えて下さった恵みの事実として語っているのです。

 

 そこで、改めて今朝の御言葉であるルカ伝1213節以下に心を向けたいと思います。「(13) 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。(14)彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。(15)それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

 

 カペナウムの群衆の中から、一人の人が(男性であったか女性であったか、それもわかりませんが)いきなり主イエスに向かって声を上げたのでした。それは「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」というものでした。古今東西、遺産の相続をめぐる兄弟姉妹どうしの争いというものは、ある意味において人類共通の問題であったわけです。死んだ親または親類の遺産を、兄弟がどように分配するかという法律的な問題です。私はそのような法律の分野には詳しくありませんからよくわかりませんが、いわゆる裁判所の民事訴訟に関わる事例のかなり多くの部分は、この遺産相続の問題によって占められていると言われています。

 

親の死によって必然的に生じた遺産の分配の問題(相続権の問題)をめぐって、仲が良かったはずの兄弟姉妹たちが不倶戴天の敵同士のような険悪な関係になってしまうというような具体的な事例を、皆さんもお聞きになったことがあると思いますし、場合によっては自分がその渦中に巻きこまれるという辛い経験をされた人も、決して少なくはないのではないでしょうか。主イエスに向かって「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」と訴えた人も、まさに相続権をめぐる複雑で辛い係争の渦中に身を置いていたのでしょう。そして、裁判所に訴えても自分の有利なようには取り計らってくれないようだと感じたこの人は、主イエスにこの相続権の問題の解決を求めたのでした。

 

 ところが主イエスはこの人に対して「(14)人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」と、一見したところまことに冷たい返事をなさったのでした。当時のイスラエルにおいては法律問題を扱ったのはパリサイ人や律法学者たちでした。だから主イエスはこの人に対して「私があなたの悩みを取り扱うのは、パリサイ人や律法学者のようにではない」と語っておられるのです。では主イエスはどのようにこの複雑な問題を取り扱われるかといいますと、それが続く15節に記された事柄で明らかにされているのです。「(15) (主イエスは)それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

 

 今朝の説教題を「本来無一物」としました。これは元々は禅語でして、それこそヨブ記120節以下のように「人間は本来的には無一物でこの世に生まれてきた。それと同じように、無一物で死んでゆく存在なのだ」という意味の言葉です。これを私に教えて下さったのは、かつて私に仏教学とサンスクリット語を教えて下さった花山信勝先生です。しかも花山先生によれば、この「本来無一物」という禅語の意味は「人間に関わる全ては無である」という意味なのだそうです。つまり「人生に関わる全ては無であると知ることが悟りであり、生命である」という意味なのだそうです。そういたしますと、この「無」についての形而上学的な解釈はさておいて、今朝の主イエスの御言葉とひとつの決定的な共通性があると思います。

 

 それはなにかと申しますと、主イエスは今朝の15節において「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と語っておられる。つまり主イエスはここで「あなたの本来的な生命=あなたが真に生きるべき生命」を問題にしておられるのです。遺産の相続問題をめぐって、どうして人々がときに驚くほど必死になり、仲の良かった兄弟姉妹たちまでもが険悪になってしまうのか。それは遺産の相続が、普通の人々にとって、高額な財産を(えてして莫大な財産を)易々と獲得できる、ほとんど人生で唯一の機会だからではないでしょうか。だから時に兄弟姉妹同士が血眼になって争ってまで、自分に少しでも多く獲得しようとするのではないでしょうか。

 

 まさに相続権をめぐる人間のそのような姿勢に対して、主イエスははっきりと言われるのです。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と。つまり、主イエスはここではっきりとこの人に教えておられるのです。「あなたの生命、あなたという名の存在そのもの、それこそが最も尊い神からの賜物ではないか。あなたは既に、あなたという名の存在そのものを、神の御手から相続しているではないか。あなたにとってその恵みの事実以上に大切なものがあるだろうか?」と。だからこそ主イエスはここで「貪欲に対してよくよく警戒しなさい」とお語りになります。この「貪欲」と訳された元々のギリシヤ語は「独占所有しようとする心」という意味です。そしてこれを語源的に辿ってゆきますと創世記11章に記された「バベルの塔の物語」に行き着くのです。

 

 古代メソポタミアにバベルの塔が作られました。中世ドイツの寓話画家ペーター・ブリューゲルの絵で有名ですが、たぶん高さ100メートルはあったと思われる巨大な塔でした。この建設自体はともかくとして、問題はこのバベルの塔を建てた人間たちの動機でした。それは「我々はこの塔を建てることによって神のようになろう」というものだったからです。しかも、人々は神のようになることによって「一つになろう」と決意した結果があのバベルの塔の建設になったのです。これは、どういうことかと申しますと、まさに主イエスが言われる「貪欲=独占所有しようとする心」で世界を一つにしようとしたのが人間であり、同時に人間の作る歴史の姿なのです。

 

 その行き着くところは何でしょうか?。それこそバベルの塔が完成せずに途中で壊れてしまったのと同じように、貪欲で世界を統一しようとした結果は「ハベル=虚しさ」だけが残るのではないでしょうか。主イエスは言われるのです、あなたはそのような貪欲に支配された人であってはならない。そうでなくて、あなたの生命、あなたの存在そのもの、あなたの人生、それこそが神からの最大の遺産ではないか。それこそ内村鑑三の言うところの「後世への最大遺物」であります。内村鑑三はそれは「信仰に基づく雄々しく崇高なる人生」であると語っています。キリストに贖われた者の雄々しく崇高なる人生です。それに較べるなら、たとえ巨億の富を独占所有することも無に等しいではないか。だから主イエスは私たち一人びとりにいま語っておられるのです。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

 

 最後にマタイ伝1626節を心に留めましょう。「(26)たとえ人が全世界を儲けても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。祈りましょう。