説    教            詩篇119129133節  ルカ福音書121112

                 「言葉を与えたもう聖霊」 ルカ福音書講解〔121

                  2022・06・05(説教22231963)

 

 「(11)あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。(12)言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。まさにいま、このペンテコステ礼拝において、聖霊によって私たちのただ中に現臨しておられる主イエス・キリストご自身が、この御言葉をお語りになっておられます。これは2000年以上に及ぶキリスト教の歴史の中で、数限りないほど繰返されてきた事柄でもあります。すなわち「(あるキリスト者が)会堂や役人や高官たちの前へひっぱられて行き、そこで弁明を求められることです。

 

 ここで「弁明」と訳された元々の言葉は、主イエス・キリストを証する言葉です。つまり、それは伝道の言葉であると言って良いのです。現代の日本でも状況は似ていますが、とりわけ2000年前のイスラエルにおいて、キリスト者と呼ばれる人は十二弟子たち以外に一人もいませんでした。だから主イエスはこの御言葉を弟子たちに向けて語っておられるのです。あなたたちは人々を恐れてはならない。「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい」と。

 

 そして同時に主イエスは、弟子たち一人びとりに、つまり、ここに集うている私たち一人びとりに、確かな答えを与えて下さいます。それが今朝の12節です。「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」と。つまり、ここで主イエスがおっしゃっておられることは、あなたは何も心配せずに、いつも自分を聖霊なる神に明け渡していなさいということです。聖霊なる神の導きにあなた自身を委ねなさいということです。すると、聖霊は必ずあなたに、その時、その状況、その人々に対して、あなたが語るべき相応しい言葉を与えて下さる。それは言い換えるなら、こういうことです、聖霊なる神ご自身があなたのために、あなたに代わって弁明して下さるのだ。だから、あなたは何も心配しないでよい。聖霊なる神が、あたに語るべき言葉を与えて下さるからだ。

 

 ですから今朝の説教題を「言葉を与えたもう聖霊」といたしました。私たちはこの事実に、聖霊が与えて出さるこの恵みに、幼児のように素直に、そして大胆に信頼してよいのです。それは逆に言うなら、キリストを証する場面において、あなたは自分自身を頼みとしてはならないという意味でもあります。ところが、このことが単純なように見えて、実は私たちにとって、とても難しいのではないでしょうか。私たちはなかなか、主なる神に自分を明け渡すことをしないのではないでしょうか。神を信じていると口先だけでは言いつつも、実は心の奥底ではいつも、自分という名の偶像を祀り、それにより頼んでいる存在なのではないでしょうか。

 

 ここで、私自身のことを少し申したいと思います。私は牧師になって40年経つのですけれども、今朝のこのルカ伝1212節の主イエスの御言葉が頭ではわかっていました。しかし本当に理解できるようになったのは最近のことです。私は説教の準備として、旧約聖書ならヘブライ語、新約聖書ならギリシヤ語の原文を必ず熟読しますし、日本語はもちろんのこと、英語やドイツ語やラテン語、場合によってはフランス語の神学書や聖書注解書をよく読み、御言葉の深い意味を知ろうと努めて参りました。聖書の学び、神学の学びにおいては、自分は誰にも劣ることはないと自負してきました。しかし私はあるとき明確に心に示されたことがあるのです。

 

 それはなにかと申しますと、私たちの教会が告白している1890(明治23)制定の日本基督教会信仰の告白がありますでしょう?あの中に聖霊について「父と子と共に崇められ、礼拝せらるる聖霊は、我らが魂にイエス・キリストを顕示す」と告白されていることの意味を、私は改めて深く考えさせられたのです。宗教改革者カルヴァンは「聖霊は我らをキリストに結ぶ絆である」と語りましたが、本当にそのとおりでありまして、聖霊なる神は私たちをキリストに案内して下さるかたなのです。というより、私たちが聖書を読んで、教会の礼拝に出席し続けて、ある日キリストがわかるようになる、というのは聖霊の導きによるのです。つまりキリスト告白は私たちの知恵や努力や理性の力によるのではなくて、ただ聖霊の導きによること、つまり、神の恵みによることなのです。

 

 そればかりではありません。今日の主イエスの御言葉を改めてご一緒に心に留めたいと思います。「(11)あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。(12)言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。これはどういうことかと申しますと、私たちがキリスト者としてどんなに困難な場面に直面しても、そして語るべき相手が誰であろうとも、聖霊は私たちを必ず導き支えて、語るべき言葉を与えて下さるというのです。

 

そこで、私たちが改めて思い起こす聖書の場面があります。それは使徒行伝の聖霊降臨の場面、使徒行伝の21節以下ですが、そこにはこのように記されています。「(1)五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、(2)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3)また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(4)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。とくに3節と4節が大切です。「(3)また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(4)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。ここで「舌」と訳されたギリシヤ語は「言葉」という意味を持っています。つまり、聖霊降臨の出来事によって、キリストの弟子たちは使徒(遣わされた者)とされ、語るべき福音の言葉を聖霊によって与えられたのです。

 

 なぜでしょうか?。聖霊はキリストの現在形だからです。主イエス・キリストは聖霊によって私たちと共にいまし、歴史の中に救いの御業をなしたもうおかたなのです。だから、私たちは聖霊によっていまここに現臨したもうキリストに仕える、キリストの僕とならせて戴いているのです。そして、教会もまた聖霊によって形作られた聖霊の宮であり、キリストを信じ告白する者たちの、聖霊の賜物に共に与る共同体であり、だからこそ教会は「聖徒の交わり」と呼ばれるのです。

 

今、私たちは2022年のペンテコステ礼拝を共にささげる喜びを与えられ、キリストの弟子たちのように、語るべき言葉、私たちを真に生かす生命の言葉を与えられて、日々の生活のただ中へと遣わされてゆく者たちです。そのことを共に覚えて、神に感謝と讃美をささげたいと思います。祈りましょう。