説    教            ヨブ記192527節  ルカ福音書121012

                  「聖霊を涜す者とは」ルカ福音書講解〔120

                  2022・05・29(説教22221962)

 

 「(10)また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。(11)あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。(12)言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。私たちは今朝、特にこの10節の御言葉に心を集中したいと願っています。それは主イエスが弟子たちに、つまり私たち一人びとりに「人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない」とおっしゃったことです。私たちはこの10節の御言葉について、どのような印象を抱くでしょうか?。

 

私は牧師になってから、今年でちょうど40年なのですが、いままでずいぶん多くの方から、このルカ伝1210節の御言葉について質問を受けてきました。それは端的に申しますと「ここで主イエスがおっしゃっておられる“聖霊を汚す罪”とは、いったいなんのことですか?」というものです。本当にとても多くのかたから、この質問を受けて参りました。そして同時に私は、その質問をする人々に一つの共通点があることに気が付きました。それは、自分がその、主イエスの言われる「聖霊を汚す罪」を犯しているのではないかという不安です。皆さんはどうでしょうか?。そのような不安を抱きながらこの御言葉を読む人は少なくないのではないでしょうか。

 

 いわゆる「聖霊派=ペンテコスタルズ」と呼ばれるキリスト教の一派があります。聖霊の働きだけを特に強調する教派で、ロシアやブラジルなどでは爆発的な勢いで信徒がふえていると聞きました。この聖霊派と呼ばれる人々が、よくこのルカ伝1210節を引用することがあります。しかしその引用の仕方は、この御言葉を根拠にして聞く人々の不安を煽り、恐怖心を抱かせ、自分たちに都合の良い信徒(つまり、自分たちの歪な教義に対して従順な信徒)を作り上げようとするものです。私たちはもちろん、そのようにこの御言葉を読んだり解釈したりしません。そこで、今朝はぜひご一緒に、この主イエスの御言葉の本当の意味を理解したいと思います。

 

 まず、主イエスはどのような文脈(状況)でこの10節の御言葉をお語りになったのでしょうか?。同じルカ伝の1115節を見ますと、律法学者やパリサイ人たちが、主イエスがなさった癒しの御業を見て「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と語ったということが記されています。そのとき、主イエスは彼らのこの言葉を、ご自分を侮辱した言葉としてではなく、なによりも聖霊を侮辱した言葉として受け止めたまいました。つまり、律法学者やパリサイ人たちは、聖霊のことを「悪霊」と呼び変え、さらに主イエスを「悪霊のかしらベルゼブルの僕」と呼んだからです。これはどういうことかと申しますと、究極的には「イエスはキリストである」というキリスト告白の否定の問題につながるのです。そしてこの事実は同時に、神が恵みの主権をもって全世界に行っておられる救いの御業そのものを全面否定することに繋がるのです。

 

 つまり、律法学者やパリサイ人たちの罪は、ただ単に主イエスを侮辱したということにとどまらず、神が主イエスを通して、そして聖霊によって、全世界に行っておられる救いの御業を全面否定し、その代わりに自分たちの義を持ち上げようとしたことなのです。ようするに律法学者たちは、自分たちを神にのし上げようとしたのです。これは実質的な無神論であり、人間を神格化し、自分自身の力に拠り頼んで、神の御業を全面否定することです。しかも彼らは、自分たちがそのような恐ろしい罪を犯したことに全く気が付いていませんでした。だからこそ主イエスは、今朝の10節において彼らの罪を明確に指摘なさったのです。「人の子(イエス・キリスト)に言い逆らう者は赦されるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない」と。

 

 同じ新約聖書の第二コリント書317節に、このように記されています。「主は霊である。そして、主の霊のある所には、自由がある」。ここで使徒パウロが語っていることは、聖霊はキリストの現在形であるという事実です。来週の日曜日、私たちはペンテコステを迎えるわけですけれども、なぜペンテコステ(聖霊降臨日)が大切なのか、それはいま教会は聖霊の導きのもとにある「聖霊の宮」であり、その聖霊こそキリストの現在形、すなわち今ここにおいて救いの御業をなさっておられるイエス・キリスト御自身だからです。だからこそ、キリストの霊である聖霊のいましたもうところにこそ真の自由があるのです。

 

 このことは、キリストと聖霊は父なる神の御業をこの世と私たちと歴史に現わすことにおいて一つでありたもうことを意味します。だから、聖霊の御業を否定することはキリスト告白の否定につながり、さらには神の御業に対する全面否定へとつながるのです。そこにはもはや自由はなく、あるのは罪の支配のもとにある「滅びの子」としての自分だけなのです。そのことを、律法学者やパリサイ人たちは、全く理解していませんでした。そして理解していないままに、自分たちを神格化していたのです。自分を神にしようとしていたのです。それこそ「聖霊を汚す罪」であり、それは赦されることはない罪なのです。なぜなら、神の救いの御業の全面否定は、自分を支配している罪に対する全面肯定でしかないからです。

 

 さて、それならば、今ここに集うている私たちはどうなのか?という問題であります。私たちもまた、そのような「聖霊を汚す罪」をおかしている存在なのでしょうか?。ここで何よりも大切なことは、私たちは既に主イエス・キリストがなさった十字架の御業によって、全ての罪を贖って戴いた存在であるという事実です。律法学者やパリサイ人たちは主イエスを全く信じておらず、聖霊の御業も信じていませんでしたが、私たちは主イエス・キリストを「わが主・救い主」と信じ告白し、教会はキリストの御身体であると同時に聖霊の宮であり「聖徒の交わり」であると信じている者たちです。この違いは決定的なのです。

 

 私たちは、譬えて言うなら、悪いことをした子供が最終的には親に抱きついて赦しを乞うのと同じように、罪あるがままの自分、罪の塊のような自分を、それだからこそ、そのあるがままにキリストの慈愛の御手に委ね、キリストの十字架による罪の贖いと完全な救いに自分の全てを投げかける者たちなのです。まさにいま私たちは、そのような主の僕たちとならせて戴いているのです。私たちは「聖霊を汚す罪」をおかしている者たちではありません。そうではなくて、そのような罪もあるがままに、ただキリストの慈愛の御手に自分の全てを投げかける者たちです。それが信仰であり、信仰に基づく新しいキリスト者の生活なのです。

 

 最後に私たちは御一緒にローマ書831節以下に心を留めましょう。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(33)だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(34)だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(35)だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。(36)「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。(37)しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 8:38わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、(39)高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。祈りましょう。