説    教            エレミヤ書171213節  ルカ福音書1269

                 「人の子イエス」ルカ福音書講解〔119

                  2022・05・22(説教22211961)

 

 「(6)五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。(7)その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。(8)そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。(9)しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう」。

 

 主イエスの時代のイスラエル、つまり2000年前のイスラエルに、ある特売の習慣がありました。それは、市場でスズメが売られていたのですが、2羽で1アサリオンという値段が相場でした。1アサリオンというのは今日の日本円にするとだいたい30円ぐらいです。ところが4羽買うと2アサリオンですが1羽おまけしてくれて5羽になったらしいのです。それは当時のユダヤ人ならば誰もが知っていることでした。つまり、今朝の御言葉において主イエスがお語りになった「(6)五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか」というのは、市場などで普通に聞くことができた決まり文句だったのです。

 

 このスズメ売りの商人の決まり文句を引用なさって、主イエスはさらにこのようにおっしゃるのです。「(6)五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない」と。市場で5羽で2アサリオン(60)で売られている大安売りのスズメ、しかしその1羽さえも「神の御前に忘れられてはいない」。日曜学校で歌われている「こども讃美歌」の中に「スズメや鳩を、お育てなさる、恵みの神を、ともに歌おう」という歌詞があります。その原作者は「失楽園」の著者として有名なイギリスのジョン・ミルトンですけれども、その歌詞の元になった聖書の御言葉が今朝のこのルカ伝126節以下なのです。

 

 そして、そこでこそ主イエスは私たち一人びとりにお語りになります。今朝の7節です。「(7)その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」と。私たち自身のことを、その髪の毛の数でさえも、私たちにまさって、遥かによく知っていて下さるかたがおられるのです。私たちは主なる神のことを「私のことを最もよく知っておられるかた」として知ることを許されているのです。そうすると、どういうことになるのでしょうか。まさにこの7節で主イエスが語っておられることは「恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」という福音の音信です。

 

 神は5羽で2アサリオンで安売りされているスズメの1羽でさえ御心にかけていて下さる。それならば、神はあなたのことを、そのようなスズメよりも遥かに御心にかけていて下さるはずではないかと、主イエスは言われるのです。この場合の「御心かけていて下さる」というのは、ただ単に私たちの存在と生活について心配をして下さる、というだけの意味ではありません。そうではなく、主なる神は私たちを、いつも唯一のかけがえのない人格としてとりあしらっていて下さる、という意味です。いま全世界に65億人ないしは70億人近くの人間がいると考えられていますが、たとえこの全世界に70億人の人間がいましょうとも、かみはあなたのことを唯一絶対のかけがえのない存在として限りなく愛して下さるかたなのです。

 

そして神はなによりも、その極みなき愛のゆえにこそ、私たちの罪を放任なさらない。神の外に出てしまった私たちを、御子イエス・キリストの十字架によって、神ご自身が神の外に出てまでも救って下さるかたなのです。神は神なき者の神であり、罪人の贖い主であり、神の外に出てしまった者を、神の外に出てまでも訪ね求め、これを救って下さるかたなのです。

 

 まさに、そのような意味を持つ今朝の御言葉だからこそ、続く8節と9節の御言葉を主イエスは私たちにお語りになるのです。「(8)そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。(9)しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう」。これは、ときどき誤解されるのですが、主なる神は私たちのことを髪の毛の数まで知っていて下さり、御心にかけていて下さる、だから私たちもそのお返しとして、いつも神様のことを忘れずにいようではないか、という意味の御言葉ではないのです。そういう意味の御言葉ではありません。

 

 そうではなくて、この8節と9節の水戸派の中心は「人の子」という御言葉にあるのてす。今日の説教題を「人の子イエス」といたしました。それは「イエスは人間にすぎない」という意味の言葉ではありません。むしろその正反対でして、聖書で「人の子」というとき、それは旧約聖書のダニエル書に記されているメシア(キリスト)のことをさしているのです。つまり、この8節で主イエスは御自身のことを預言者ダニエルが語っているメシア(キリスト=救い主)であると語っておられるわけです。それならば、そこで私たちに求められているものは、なによりも信仰告白ではないでしょうか。つまり「ナザレのイエスはキリスト=救い主である」という信仰告白です。それを今朝の御言葉は私たち一人びとりに求めているわけです。その意味で申しますなら、、キリストへの信仰告白というのは、キリストが私たちの救いのためになして下さった事柄に対する私たちの応答なのです。

 

 どういうことかと申しますと、御子イエス・キリストは、特にその十字架と復活によって、罪人のかしらであった私たちを、まさにその罪あるがゆえにこそ限りなく愛し、これを訪ね求め、見出して、私たちの罪を一身に背負って、黙って十字架への道を歩んで下さったかたなのです。そこにこそ、私たちに対する神の愛が現れているのです。主イエスの弟子の一人であったペテロは、このようなキリストの限りない愛を知りながら、主が十字架におかかりになる直前、恐怖心を起こしまして、3度も主を「知らない」と言いました。自分はあんな人とはなんの関係もないと3度、いわばキリスト告白を否認したわけですね。

 

 そのペテロに対して、主はどうなさいましたか?。「もうお前のことなんか知らない、この恩知らずの裏切り者め!」と言いたもうたのでしょうか?。そうではありませんでした。そうではなくて、主イエスはペテロがご自分を3度も否認した罪を赦して下さったのです。「ヨハネの子シモンよ、あなたは私を愛するか?」と3度もペテロに訊ねて下さり、ペテロが心から喜んで「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのを待っていて下さったのです。まさにその赦しと召命から、ペテロの新しい使徒としての人生が始まっていったのです。

 

 私たちも、全く同じではないでしょうか?。主イエス・キリストはいま、聖霊によって私たちに現臨して下さり、そして訊ねていて下さいます。「あなたは私を愛するか?」と。私たちはその主の問いに、信仰をもってお答えする者たちでありたいと思います。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。だからこそ、この限りない恵みの御言葉に基づいて「だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう」と主は私たち一人びとりにいま語っておられるのです。あなたこそその人なのだと語っていて下さるのです。

 

 もちろん私たちは9節にある「(9)しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう」という御言葉をも忘れてはなりません。しかしなによりも、主は御自身の十字架と復活の恵みによって、いま私たち一人びとりを、主の御名を拒む者ではなく、主の御名にのみ全世界の救いがあると信じ、告白する主の僕、主の弟子としていて下さるのです。祈りましょう。