説    教             出エジプト記316節  ルカ福音書1245

                 「ただ神のみを畏れよ」ルカ福音書講解〔118

                  2022・05・15(説教22201960)

 

 「(4)そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。(5)恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい」。今朝のこの主イエスの御言葉は、とても厳しいもののように聞こえるかもしれません。実際問題として、これはたしかに厳しい御言葉なのですけれども、その反面、これは私たち人間にとって、真の自由と幸いと平和の根源となる御言葉であり、私たちを隷属から解放し自由を与える福音なのです。今朝はそのことをご一緒に心に留めながら、主イエスの福音の御言葉を聴いて参りたいと思います。

 

 この御言葉について、私に一つの思い出がございます。それは先日51日に天に召された小原正牧師が、やはり東海連合長老会の先輩の牧師であった川崎嗣夫牧師の葬儀の説教をなさった時のことです。それはもう10年ほど前のことになりますが、小原先生は川崎牧師との思い出に触れつつ、このようなことを説教の中で話されたのです。川崎先生というかたは、太平洋戦争終結時に神学生として学徒動員され、終戦時には陸軍の予備士官として満州におられました。皆さんも御存じのように、約50万人の日本人が、当時のソ連によって不当にシベリアに抑留され、過酷な労働を強いられ、そのうち約6万人が帰国できぬまま亡くなられたのですが、川崎先生もそのシベリア抑留を経験した一人でした。

 

 ある凍り付くような寒い夜に、疲れ果てて眠っている川崎先生をはじめとする旧日本兵たちは、いきなりロシア兵たちによって叩き起こされ、外の広場に整列させられたのだそうです。それは強制収容所で些細なものが紛失したのですが、その容疑者として旧日本兵たちが外に集められたのでした。もちろん日本人は誰も盗みなどしているはずはありませんから、尋問は立たされたまま延々と数時間も続いたそうです。氷点下30度もの酷寒の中で、旧日本兵たちは寒さのため気を失って倒れる人もあり、あるいはそのまま亡くなった人もあったそうです。

 

その試練の中で、川崎先生の脳裏に主イエスの今朝のルカ伝1245節の御言葉が甦ったのでした。「(4)からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。(5)恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい」。川崎先生はこの主イエスの御言葉によって、その夜の絶望的な状況の中で限りない勇気と慰めに満たされたそうです。それは先生にとって新しい召命の恵みとして神から与えられた試練の時となったのでした。自分はいつでもあの夜のことを思い起こし、そして主イエスがお語りになったルカ伝124節と5節を思い起こすと、そのように私にも先生は語られたことを、私はいま思い起こしているのであります。

 

 主イエスが今朝の御言葉において語っておられる「(あなたは)神のみを畏れなさい」という言葉はもともと「あなたは、神のみに拠り頼む人となりなさい」という意味のギリシヤ語です。つまり「畏れる」とは「拠り頼む」という意味であり、それは同時に「神に従う」という意味でもありますから、それこそ私たちのキリスト者としての毎日の生活の根本部分に関わる御言葉なのです。私たちはこの21世紀に生きるキリスト者たちとして「ただ神のみを畏れよ」と聞いて、どのような印象を持つでしょうか。たぶん、あまり良い印象ではないのではないでしょうか。なるほど現代に生きる私たちの生活は、一見したところ自由であり、満ち足りているように見えるかもしれません。そのような私たちにとって「ただ神のみを畏れよ」聴くことは、なにか上から蓋をされるような気がするのかもしれません。しかし、改めて顧みるなら、私たちの生活は実は少しも自由なものではなく、満ち足りたものでもないことが理解できるのではないでしょうか。

 

 たとえば、私たちは自分の意志や願いに反して、病気になることがあります。身体的にも精神的にも、非常な不自由さを感じることがあるのではないでしょうか。また、自分が願ったように計画したことが進まないこともあります。それどころか、自分の願いとは正反対の、行きたくない方向に、人生が導かれることだってあるのではないでしょうか。そのような様々な人生経験の中で、私たちはいつのまにか、自分を不自由にしている出来事を取り除きさえすれば、自分は自由になれる、もっと生きやすい生活ができるはずだと、そのように思い込んでいるのではないでしょうか。つまり、私たちにとっての幸福の条件は、自分の思いのままに生きられる人生ということになるのではないでしょうか。

 

 今朝の御言葉を改めて心によく刻みましょう。主イエスは「私の友であるあなたがたに言う」と前置きされて、このように私たちに明確にお教えになりました。「(4) からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。(5)恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい」。私たちは、実はいつも、これとは正反対の価値観を持っているのではないでしょうか。つまり私たちはいつも「肉体を殺すことのできる者たちだけを恐れている」存在なのです。そのようにして、実は私たちは、いつまで経っても本当の自由を得ることができずにいるのです。

 

 まさに、そのような私たち一人びとりに対して、主イエスは明確にお語りになるのです。「(4) からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」と!。