説    教               ホセア書712節  ルカ福音書1213

                  「明歴々露堂々」ルカ福音書講解〔117

                  2022・05・08(説教22191959)

 

 「(1)その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。(2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。(3)だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう」。

 

 主イエスが律法学者やパリサイ人たちとの論争に、いわば勝利をおさめられたのを見て「おびただしい群衆が、互いに踏み合うほどに群がって来た」のでした。このような場面での群集心理というのは、自分たちの人間的な正義感の実現者を称賛するのと同時に、その実現者に対して、自分たちの願望をもっと適えてほしいという自己中心的な英雄崇拝者の心理となって現れるものです。事実、この時の主イエスのお姿は、カペナウムの群衆たちの目には完全なヒーローのように見えたのです。

 

そのような群衆の願望が、主イエスに対して「どうか私たちのために、イスラエルの新しい王様になって下さい」という、政治的メシアへの待望となって現れたのは当然かつ自然な成り行きでした。そしてそれは同時に、ゴルゴタの丘に十字架を背負って歩みたもう主イエスに向かって「十字架にかけろ!」と罵りつつ石を投げ唾を吐きかけた群衆の姿と表裏一体のものであったのです。英雄崇拝への願望が裏切られたと知ったとき、群衆の心理は掌を反すように一瞬にして、主イエスに対する憎しみと蔑みへと変わっていったからです。

 

 いわば、このような群衆のもたらす狂瀾怒濤の嵐の中で、主イエスは私たち全ての者のために黙々と十字架を背負ってゴルゴタへの道を歩み始めておられます。ただし、私たちの目にはまだその十字架は見えていません。それが見えるようになるために、主イエスは今朝の御言葉を弟子たちに、否、私たち全ての者にお語りになるのです。それが今朝の2節以下の御言葉です。「(2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。(3)だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう」。

 

 今朝の説教題を「明歴々露堂々」といたしました。これはいわゆる禅語(禅の公案集の中に出てくる言葉)でして、その意味は「隠されているものなど一つもない」ということです。ただし、禅語の「明歴々露堂々」には主語がありません。いわばそれは自分本位にどのようにでも解釈しうる言葉です。しかし主イエスがお語りになる「明歴々露堂々」には明確な主語があるのです。それはもちろん天地万物の創造主にして、私たち全ての者の全能の父なる唯一の神です。主なる神の御前でこそ「隠されているものなど一つもない」という言葉がはじめて明確な意味を持ちうるのです。

 

 石川啄木は歌集「一握の砂」において「人といふ人の心に一人ずつ囚人がゐて呻く悲しさ」という和歌を詠んでいます。「全ての人間の心の中には、あたかも囚人が呻き声を上げ続けているような暗い独房があって、そこから響いてくるその呻き声の悲しさを自分はどうすることもできずにいる」という意味の歌です。そこには石川啄木という人の徹底的な孤独の悲しみが現れています。しかし、それは裏返しに申しますなら、そのような暗い独房が心の中にあるからこそ、全ての人間の心は窺い知ることのできない謎なのだ、という意味にも繋がるのではないでしょうか。それこそフロイトやユングが提唱した精神病理学の言葉で申しますならば「抑圧された記憶=トラウマ」の理論に繋がるのではないでしょうか。

 

 先日も、ある男性俳優が自殺したらしい、というニュースがテレビなどで伝わってきました。自殺するような理由が第三者の目には思い当たらない、ということで大きな話題になっているようですが、実はそれは、その俳優だけではなくて、ほとんどの自殺者の死の原因は、他の人々の目には謎であり続けるものなのではないでしょうか。それこそ私たちは誰もが、自分の心の中に潜む「暗い独房で呻く囚人の声」をどうすることもできないのではないでしょうか。

 

 しかし、まさにそのような私たちに主イエスは明確に告げておられます。「(2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」と。しかも、その私たちの心の闇をすべて知っておられるかたは、主なる真の神なのです。私たちは自分でさえも自分のことがよくわからない、まことに「灯台もと暗し」的な存在なのですけれども、それを恐れる必要はないと主イエスははっきりと私たちに告げておられるのです。なぜなら、あなたの心の奥底にある「暗い独房で呻く囚人の声」を、主なる神は全てご存じでいらっしゃるからだ。あなたの何ひとつとして、神の前に隠されているものはないからだ。「神が知っていて下さる」このただ一つの事実こそ、私たち全ての者にとってははかり知れない慰めであり、力と勇気の源なのです。

 

 精神病理学の話に戻りますと(私が苦手な分野ですが)アメリカなどではトラウマの治療方法として「追体験」という方法が取られることが多いようです。つまり、トラウマに苦しんでいる人にそのトラウマの原因となった過去の出来事を追体験させることによってトラウマを乗り越えさせようとする治療方法です。しかし私はこの方法にはとても否定的です。うまく治療につながる可能性も無くはありませんが、もしも失敗したら、クライアントの人生に新しい「暗い独房」を作ることになりかねないからです。そうではなく、私たち人間にとって本当の心の癒しは、今朝の主イエスの御言葉の中にしかありえないのではないでしょうか。

 

(2)おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」。しかもそこには明確な主語でありたもう主なる神がおられるという事実です。私たちのどのような心の闇も、悲しみも、苦しみも、悩みも、せつない気持ちも、その全てを主なる神が知っていて下さる。御手にしっかりと受け止めていて下さる。そして「あなたはその苦しみと悲しみを持ったままであっても良いのだよ」とおっしゃっていて下さる。「あなたいつも、あなたのままでいて良いのだ」とはっきりと語っていて下さる。それが主イエスの言われる「明歴々露堂々」なのです。

 

 しかし、私たちは今、はっきりとこのことを覚えなければなりません。主イエスはどうしてこの2節、そして3節の御言葉をお語りになったのでしょうか?。3節にはこうございました。「(3)だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう」。ここには「イエスは主なり」という信仰告白の行方が記されています。それは初代教会の時代にキリスト者たちが実際に経験したことです。キリスト告白はローマ帝国の禁教令で禁止されていましたから、それは命がけの行為でした。しかしそれは必ず歴史の中で「明るい場所で皆に聞かれ…屋根の上で公然と言い広められる」ようになるのです。

 

 すると、ここに現れていることは「イエスは主なり」という信仰告白の問題だということがわかります。主イエス・キリストは、私たちのために、あなたの救いのために、何をして下さいましたか?。主イエスは私たちの計り知れない罪を黙って背負い、あの呪いの十字架を負うて、ゴルゴタへの道を歩んで下さいました。そして十字架におかかりになって、私たち全ての者の罪を贖って下さった唯一の救い主なのです。まさにこの十字架の主イエス・キリストを信じ、告白し、公然と言い広めるところに、全ての人間にとっての真の癒しと回復が起こります。私たちの心の奥深くに存在していた「暗い独房」から私たちは解放されて、主イエス・キリストの贖いと救いの恵みによって新しく立ち上がり、主と共に、主の祝福の内を、心を高く上げて歩む、主の僕、主の民とされて、御言葉に養われつつ歩んでゆく幸いが、私たち一人びとりにいま、聖霊によって現臨したもう主の御手から、豊かに与えられているのです。祈りましょう。