説    教                 詩篇7015節  ルカ福音書115354

                  「十字架への道」ルカ福音書講解〔116

                  2022・05・01(説教22181958)

 

 「(53)イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、(54)イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた」。カペナウムの街の広場で主イエスがなさった説教が終わるのを待ちかねたように、律法学者やパリサイ人たちが主イエスに向かって「激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけ」たのでした。

 

それは54節にあるように「(彼らは)イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた」からです。ようするに、律法学者やパリサイ人たちは、主イエスが説教の中で、衆人環視の中で自分たちのことを侮辱したと思いこみ、非常に激しい怒りの炎を燃やしたのです。なんとかして主イエスの言葉尻を捕らえて失脚させ、あわよくば処刑してしまおうと画策するに至ったのです。

 

 まさに、このような場面における人間の怒りや恨みや執念ほど恐ろしいものはないのでして、世の中で起こる殺人事件のほとんどが、この怒り、恨み、執念によって惹き起こされると言っても過言ではないでしょう。それはすさまじい負のエネルギーをもって他者を攻撃し、排斥し、あわよくば亡き者にしようとする陰湿かつ巧妙な衝動として現れます。言い換えるなら、律法学者やパリサイ人たちは当時のイスラエルの宗教的指導者でありながら、このような陰湿かつ巧妙な負のエネルギーがもたらす衝動に対しては全く無力であったわけです。

 

いや、それは彼らだけの問題ではなくて、私たちは誰しもみな、このような負のエネルギーが私たちを捕らえんとするとき、それに対して全く無力であるだけではなく、みずから進んでその暗い衝動に身を委ねてしまう、まことに弱く愚かな存在なのではないでしょうか。そして、そこに現わされる私たちの罪の結果こそが、この現実世界におけるありとあらゆる悲惨の温床であり、あらゆる戦争の根本原因であると言うことができるのではないでしょうか。

 

 私たちはルカによる福音書を連続して説教を通して学んで参りましたが、もしもこの福音書をゴルゴタへの地図に譬えるなら、その十字架へと向かう決定的な転換点になった出来事こそ、今朝のこの1153節と54節であると思うのです。飛行機が離陸するとき「V2」という地点が定められています。それは「なにかアクシデントが起こっても離陸を止めてはならない速度」という地点です。それと同じように、いまや主イエスの歩みはゴルゴタの十字架に向かって不可逆的なセッティングがなされたのです。もう引き返すことはできないのです。今朝の説教題を「十字架への道」といたしましたのはそのためです。それでは、この「十字架への道」へと主イエスの歩みを不可逆的にセッティングした要素は何であったのでしょうか?。

 

普通に考えますなら、それは律法学者やパリサイ人たちの負のエネルギーがそうさせたのだと言うことができるでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか?。言い換えるなら、主イエスがゴルゴタの十字架への道を決然として歩み始めたもうた理由は、ただ単に律法学者やパリサイ人たちの怒りに促されてのこと、つまり受け身の事柄だったのでょうか?。そうではないと思います。改めて今朝の53節の御言葉を見てみますと「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけた」と記されています。そしてここには、主イエスの側からの応答はなにひとつとして記されていません。それは何を意味するかと申しますと、主イエスは律法学者やパリサイ人たちたちが主イエスの言葉尻を捕らえんとして「激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけ」続けていたあいだ、沈黙しておられたからではないでしょうか。

 

 これは後の、十字架を目前とした大祭司カヤパの家の中庭で行われた裁判の場面における主イエスのお姿、そしてローマ総督ポンテオ・ピラトの尋問を受けたときの主イエスのお姿と重なるものです。あそこでも主イエスは人々がみな不思議に思うほど沈黙しておられました。その沈黙の意味は何だったのでしょうか?。実はそれを読み解くことこそが今朝の御言葉を正しく理解するための鍵なのです。その沈黙の理由は、主イエスはここで、律法学者やパリサイ人たちの罪はもちろんのこと、全ての人々の罪を(もちろん私たちの罪をも)黙って一身に担われて、ゴルゴタの十字架への道をすでに歩み始めておられるからです。だからこそ、何でも徹底的に議論しなくては気が済まないユダヤ人たちの間にあっても、主エスは彼らがみな不思議に思うほど沈黙を貫いておられたのです。主イエスの沈黙の理由は、主イエスがすでにゴルゴタの十字架を目指して歩み始めておられたからです。

 

 もう30年以上前のことになりますが、私は一人の求道者(未受洗者)の男性ととても印象に残る会話をしたことがあります。そのかたは当時60歳ぐらいで、東京のある会社の社長をされていました。福島県のご出身で、苦学して大学を出られ、青年時代に一念発起して建てあげた会社を、その頃は既に一部上場の中堅企業にまで成長させていたかたでした。奥さまが交通事故で亡くなられて、その葬儀を私が司式したことが契機で教会の礼拝に出席するようになりました。あるとき、このかたが礼拝後に私に「先生、相談したいことがあるのです」とおっしゃって、私にこういうことを話されました。

 

 「自分は洗礼を受けたいと思うのだけれど、気持ちの中でどうしても整理がつかない一つの疑問がある。それは、イエス・キリストというかたは、いわば勝手に十字架にかかったのではないのか?。その、勝手に十字架にかかったキリストが、どうして2000年後の私の救い主になりうるのか、その理由がどうしてもわからないのです」とおっしゃったのです。私は、それはとても鋭い、そしてとても良い質問だと思いました。私は咄嗟に(それこそ聖霊の導きだとしか思えないのですが)このかたにこう答えたのです。「勝手に十字架にかかって下さったからこそ、有難いのではないですか?」。そして私はこうも言いました。「もしも私たちが主イエスに対して、私たちを救うために、嫌だろうけれど、どうかここは我慢して、忍んで、十字架にかかって下さいお願いしますと言って、主イエスが、そうか、仕方がないなあ、嫌だけれど十字架にかかってあげよう、と答えて、その結果あの十字架があったのなら、それはたいして有難いことではない。しかし主イエスというかたは、私たち全ての者の罪の贖いと赦しのために、黙って、勝手に、十字架への道を歩んで下さったかたなのです。だからこそ、その十字架は有難いのです」。

 

 このかたは、畑中さんというかたですが、5分ぐらい沈黙しておられました。そして最後に「わかりました。私は洗礼を受けます」と言われたのです。私はこの時の会話を昨日のことのように思い起こしています。畑中さんは5年ほど前に95歳で、忠実なキリストの僕として天に召されました。

 

 主イエス・キリストは、黙って、勝手に、あの恐ろしいゴルゴタの十字架への道を歩んで下さったかたなのです。だからこそ、それは私たち全ての者の確かな唯一の罪の贖いと救いであり、永遠の生命を与える恵みなのです。

 

最後に、ローマ書56節以下の御言葉をお読みしたいと思います。「(6)わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。(7)正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。(8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(9)わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。(10)もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。(11)そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。祈りましょう。