説    教                 詩篇2057節  ルカ福音書114952

                 「キリストとイスラエル」ルカ福音書講解〔115

                  2022・04・24(説教22171957)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝1149節以下を、もう一度口語訳でお読みいたしましょう。「(49) それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。(50)それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。(51)そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。(52)あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。

 

 ここには、まことに厳しい主イエスの御言葉が続いています。当時のイスラエルの宗教的・政治的な指導者たちであったパリサイ人や律法学者たちに対して、主イエスは「(あなたたちは)わざわいである」と宣言なさるのです。この「わざわいである」とは元のヘブライ語を直訳するなら「(あなたたちは)最も不幸な人たちである」という意味の言葉です。つまり主イエスはここで、ただ単にパリサイ人や律法学者たちを断罪なさっておられるだけではなく「あなたたちはどうして最も不幸な人のままであって良いだろうか」と、救いへの招きの御声をかけておられるのです。「(あなたたちは)わざわいである」とは、主イエス・キリストによる救いへの招きの言葉なのです。

 

 それならば、今朝の御言葉がまことに厳しい響きを持っている理由もわかるのではないでしょうか。つまりそれは、救いへの招きの御声のみが持つ厳しさなのです。敢えて「救いの権威」と言ったほうが良いかもしれません。主イエスはまさに「救いの権威」をもってパリサイ人や律法学者たちに、否、ここに集うている私たち全ての者に、まことに厳しい言葉をお語りになっておられる。それは「あなたたちはどうして最も不幸な人のままであって良いだろうか」という、救いへの招きの御言葉であり、熾烈なまでに厳しい愛の言葉であり、私たち全ての者に悔改めと救いの喜びを与える生命の言葉なのです。

 

 譬えて申しますなら、本当に子どもを愛している親のみが、本気で子供を叱ることができるのと同じことです。主イエス・キリストは聖なる神の永遠の愛をもって私たち全ての者を愛しておられるかたなるがゆえにこそ、私たち全ての者に対してまことに厳しい救いへの招きの言葉をお語りになることができるのです。

 

 今朝の説教題を「キリストとイスラエル」といたしました。私たちは「キリストとイスラエル」と聞きますと、それはどちらかといえば対立的な関係であったというように理解しがちなのではないでしょうか。たしかに主イエスは聖書のいろいろな場面でパリサイ人や律法学者たちを非難しておられますし、いわゆる律法主義を排斥しておられるのも事実です。しかしそれは一面的な見方にすぎないのでして、例えば主イエスはマタイ伝の517節に「(17)わたしが律法や預言者を廃するために来た、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」と語っておられます。また、同じ新約聖書のローマ書の91節以下を見ますと、使徒パウロによる次のような御言葉があります。「(9:3)実際、わたしの兄弟、肉による同族の(救いの)ためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されても厭わない」。

 

 これはどういうことを示しているかと申しますと、イスラエルというのは聖書においては、決して単なる一つの民族の名称ではない、あるいは単なる国の名称でもないのでして、それは全世界の全ての人々を代表する指示代名詞として用いられているのです。事実イスラエルという元々のヘブライ語は「神の平和」という意味であり、それは全人類が実現すべき課題として祝福の内に与えられているものなのです。今朝、併せてお読みした旧約聖書の詩篇206節と7節にはこのように記されていました。「(6)今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって、その聖なる天から彼に答えられるであろう。(7)ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」。

 

 特にこの7節に「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」とありますが、戦車はそのままとして、この「馬」をミサイルと言い換えるなら、現在進行中のロシアによるウクライナへの侵略と見事に重なるのではないでしょうか。「ある者は戦車を誇り、ある者はミサイルを誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る」。ただそこにのみ、この世界の救いと平和の実現があるのです。この「(我らは)主の御名を誇る」というのは「私たちは十字架の主イエス・キリストによる罪の贖いと赦しを信じ、私たち全ての者が招かれている救いに対してアーメンと告白する」という意味です。繰返し申します、ただそこにのみ、この現実的世界における恒久的な平和の実現があるのです。これを言い換えるなら、この世界は主なる神がイスラエルを通して全世界にお与えになった自由の道標である律法を正しく聴き守ることによってのみ救われるのです。

 

 そのとき、さらに大切なことは、イスラエルの律法を完全に遵守することは私たち自身の知恵や力でできることではないということです。そうではなく、それはただ神の御子主イエスキリストの十字架と復活の恵みによってのみ可能なのです。だからこそ主イエスは先ほどのマタイ伝517節において「わたしが律法や預言者を廃するために来た、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」と語りたもうたのです。イスラエルの律法を全人類を代表して、全人類の救いのために完全に成就して下さったかたは、十字架と復活の主イエス・キリストのみなのです。だからこそ私たちは使徒行伝412節の御言葉を、私たち自身の信仰告白として告白するものです。「(4:12)この人(イエス・キリスト)による以外に救いはない。私たちを救いうる御名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」。

 

 終わりに私たちは、今朝の御言葉の50節と51節を心に留めたいと思います。「(50)それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。(51)そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう」。ここに主イエスは繰返し「この時代がその責任を(預言者たちを殺した責任を)問われるであろう」と語っておられます。とても厳しい御言葉です。私たちを限りなく愛するがゆえの厳しさです。これが厳しい言葉だと申しますのは、ここにこそ主の十字架が立っているからです。アベルからザカリヤに至るまで、猿人類から21世紀の現代にいたるまで、私たちは自分の罪に対しては全く無力な存在であるにすぎないのです。

 

 しかし、まにそのような、罪に対して(それゆえに死に対しても)全く無力な存在にすぎない私たちの救いのために、神の永遠の御子イエス・キリストが、私たちの罪のどん底にまで降りて来て下さって、そこであの呪いの十字架を背負って下さいました。私たちの罪の贖いのために、神と本質を同じくするかたが、神ご自身が、死なれて、神ではないものになって下さったのです。そのようにして、十字架においては神ご自身が神の外に出て下さった。そして、神の外にいて滅びるほかはない私たちを救い、永遠の生命を与えて下さったのです。永遠なる神が、御子イエス・キリストの十字架と復活によって与えて下さった新しい生命ですから、それは「永遠の生命」なのです。

 

 いま、ここに集うている私たち一人びとりが、律法の成就者にして完成者であられる主イエス・キリストによる救いに、豊かにあずかる僕たちとされています。永遠の生命を戴く者たちとされています。その私たちは聖なる公同の使徒的なる教会の一員として聖徒の交わりに生きる喜びと幸いを与えられています。そして、主の復活の喜びに連なる毎週の日曜日ごとの主日礼拝を献げつつ、祈りを熱くして、心を高く上げて、キリスト者(キリストに贖われた者)としての歩みを続けて参りたいと思います。祈りましょう。