説    教        出エジプト記1516節  Tコリント書151219

                 「キリストの復活」 イースター礼拝

                  2022・04・17(説教22161956)

 

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの復活を記念するこの礼拝において、私たちに与えられている第一コリント書1512節以下の御言葉をもういちど口語訳でお読みしたいと思います。「(12)さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。(13)もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。(14)もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」。

 

 使徒パウロはここで、主イエス・キリストの復活という事実こそが、私たち全ての者と全世界の救いの根拠であると宣べ伝えているのです。もしもキリストの復活という事実が無かったならば、つまり、キリストが十字架におかかりになって死なれ、墓に葬られ、陰府に降りたもうただけであって、復活が無かったならば、私たちの救いもまた無かったと明確に語っているわけです。

 

 私が最初に教会に行くきっかけになったのは、16歳の時に、農学校の同級生であった親しい友人が急性白血病で死んだことでした。私はクラスメイトたちと共に、彼の自宅で行われた葬儀に出席しました。すると、今ではもう映画や時代劇の中でさえ見られなくなった棺桶(つまり樽型の棺桶)に、友人の遺体は押し込められていました。長い僧侶の読経の後で、私はクラスメイトたちと一緒に友人の棺桶を担いで数百メートル離れた墓地に行き、深く掘られていた墓穴に友人の遺体を埋葬しました。そこには、希望の欠片すらありませんでした。あったのは深い絶望と悲しみだけでした。

 

 この出来事がきっかけになって、私は人間にとっての救いとは何かということを真剣に考えるようになりました。それは、あの墓穴が象徴していた絶望と悲しみの中に救いがありうるのかという問題です。そこで、私は生まれて初めて聖書を読み始めました。しかし一人で読んでいてもわかりません。そこで私が思いついたのが、教会に行ったら聖書を教えてもらえるに違いない、ということでした。忘れもしません、私が高校2年生になったばかりの46日の日曜日の朝、みぞれ交じりの雪が降る日に、私は生まれて初めて教会に行き、礼拝というものを経験したのです。そして、私はそこで(最初に出席した礼拝の中で)生涯忘れられない衝撃的な経験をすることになりました。

 

 それはなにかと申しますと、礼拝の中で、週報に印刷されていた使徒信条を初めて読み、教会員たちと一緒に朗読(告白)したことです。そこにはこう書いてありました。「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦り…」。これが私の回心の経験となりました。初めて出席した教会の礼拝で、使徒信条を朗読した段階において、既に私の心の中に強い決心が現れていたのです。それは「これから先いかなることがあろうとも、私はイエス・キリストというかたから絶対に離れないで生きて行こう」という決意でした。それは同時に「いかなることがあろうとも、絶対に礼拝を休まない」という決意でもありました。それはなぜかと申しますと、使徒信条の中に「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦り…」と明記されていたからです。

 

 あの、私の友人の遺体を埋葬した、あの深い墓穴の中にさえ、イエス・キリストというかたは降りてきて下さったのだ!。恐ろしい陰府の孤独の中にさえ、主は私の友人と共にいて下さるかたなのだ。この思いが、私を一瞬にしてキリストを信ずる者に変えたと言って良いのです。それが私の16歳の時の回心の経験です。そして、私はさらに使徒信条の中に、次のような大切な告白があることにも気が付きました。それは「(主は)三日目に死人のうちより甦り…」という告白です。どうして当時の私がこれこそ大切な文言だと感じたかと申しますと、もしもキリストが、十字架において死なれて陰府に降りたもうただけであったなら、つまり、十字架と死で終わっていたならば、そこには私と友人の本当の救いは無いということに気が付いたからです。

 

 端的に申しますと、こういうことです。キリスト教は、キリストの墓を拝む宗教ではないということです。同じように、キリスト教は、キリストに関する思い出に生きる宗教ではないということです。そうではなく、キリスト教の本質は(というよりも福音の本質は)復活していまここに現臨しておられるキリストとの出会いにあるからです。また私ごとになりますが、私が30年前にエルサレムの聖墳墓教会に参りましたとき、私は4人のドイツ人の修道女たちと一緒にキリストの遺体を安置したと伝えられる洞窟の中に入りましたけれども、そこの壁にはギリシヤ語でルカ伝245節の御言葉が刻まれていました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。私がこのギリシヤ語の文章を修道女たちのためにドイツ語に翻訳してあげましたら、彼女たちは「あーらまあ!そうだったのね!神様ありがとう!」という感じの反応をしました。

 

 今朝の御言葉である第一コリント書15章の17節以下には、さらにこのようにございました。「(17)もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。(18)そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。(19)もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。注目すべきはこの17節です。「(17)もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」。もしもキリストの復活という事実が無かったなら、私たちの信仰は「キリストに関する思い出を語り合うだけ」になってしまうでしょう。

 

すると、キリストの現臨による今ここにおける私たちの罪の贖いと赦しの出来事は無いわけですから、実際的にも論理的にもキリスト教そのものが存在せず、教会もまた存在しえないことになるでしょう。もしもにキリストの復活という事実が無ければ、まさに今朝の18節にあるように「(18)そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである」と言うよりほかはなく、まち19節にあるように「(19)もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」と言うほかは無くなるのです。

 

 しかし事実として、主イエス・キリストは、私たち全ての者と全世界の罪の贖いのために十字架におかかりになり、死んで墓に葬られ、陰府に降りたもうただけではなく、復活されたかたなのです。つまり、主は私たちの罪の贖いのために十字架において死なれ、その救いを(新しい生命を)私たち全ての者に与えて下さるために復活されたかたなのです。つまり主イエス・キリストは、十字架による死という内在的論理における救いだけではなく、復活という超越論的論理における救いを私たちに与えて下さるかたなのです。だから歴史的なイエスは歴史の救い主キリストなのです。主は御父と本質において等しいかたなのです。だからこそ主イエスが私たちに与えて下さる救いは、確かな唯一絶対の救いなのです。

 

 どうかこのことをご一緒に深く心に留め、復活の主と共に、復活の主の祝福の内を、心を高く上げて歩む私たちでありたいと思います。祈りましょう。