説    教           申命記111820節  ルカ福音書114548

                「キリストを示す律法」 ルカ福音書講解〔114

                 2022・04・10(説教22151955)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝1145節以下の御言葉を、もう一度口語訳でお読みしたいと思います。「(45)ひとりの律法学者がイエスに答えて言った、「先生、そんなことを言われるのは、わたしたちまでも侮辱することです」。(46)そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。(47)あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。(48)だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから」。

 

 先週の御言葉に引き続いて、ここにも、主イエスのまことに厳しい御言葉が響き渡っています。昔から「良薬口に苦し」と申しまして、私たちは主イエスから率直に厳しい御言葉を戴かなければ、自分の罪さえも知らずに済ませようとしてしまう、まことに愚かな存在なのではないでしょうか。今朝のこの御言葉が語られた場面における「一人の律法学者」がまさにそのような、私たちと同じような自己中心的な人間でした。彼は主イエスが厳しい御言葉をお語りになることに立腹して「先生、そんなことを言われるのは、わたしたちまでも侮辱することです」と申したのです。主イエスに対して厳重抗議をしたわけです。否、むしろそれは主イエスに対する脅迫ともいえる言葉でした。

 

 つまり、この律法学者は主イエスに対して「我々をこれ以上侮辱するのなら、あなたの身の安全は保障できませんよ」と申したわけです。もともとパリサイ人と律法学者はひとくくりにはできない人々でした。つまり、パリサイ人は必ず律法学者でしたが、律法学者は必ずしもパリサイ人ではないという関係でした。そこで、この律法学者は主イエスの御言葉の何に対して憤ったかと申しますと、それは同じ11章の44節に対してでした。「(44) あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。私は約30年前にエルサレムに参りましたが、そのとき驚いたことの一つは、墓地がとても多いということでした。

 

特にエルサレムの旧市街を見下ろす小高い丘であるオリブ山にの斜面は、ほとんど墓地で埋め尽くされていると言っても良いほどでした。それらの墓の中には非常に古いものも多くありまして、墓標なども風化していて、どうかすると人々が知らずに、古い墓の上を歩いてしまうことも珍しくない、まさに主イエスが44節で言われたように「その上を歩いても人々は気づかないでいる」ことが珍しくないのだということを感じたのです。そうは申しましても、私たち日本人にとっては「この律法学者はこの御言葉にどうして激しく怒ったのだろう?」と疑問に感じるかもしれません。その理由を理解するための鍵は、主イエスがここで「死人」という言葉で律法学者たちをあらわしておられることによります。それはもちろん肉体的な死ではなく、主なる神の前に死んだ者という意味です。だからこそ、この律法学者は主イエスの御言葉に対して憤ったのでした。

 

 そこで、この律法学者の激しい憤りに対して、主イエスは今朝の46節以下にこのようにお答えになりました。「(46)あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。(47)あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。(48)だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから」。

 

 律法の基本はモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)ですから、それは聖書の言葉であり、神の言葉です。神の言葉であるなら、それは私たちを救い、永遠の生命を与える「生命の言葉」すなわち福音そのものです。福音であるならば、それを聴いて信じる人々は誰でも救いに入れられ、天に国籍を持つ者とされるのです。ところが律法学者たちは、その本来は神の言葉(福音)であるはずの律法を、単なる死んだ規則(禁止事項の条文)にしてしまいました。だから46節に主イエスは「あなたがた律法学者は、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」と、まことに厳しい御言葉をお語りになっておられます。本来は福音を語るべき律法学者なのに「負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」のなら、あなたがたは死人と同じではないかと主イエスは言われるのです。

 

 次の47節以下の御言葉も、まことに厳しいものです。「(47)あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。(48)だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから」。ここで「預言者たちの碑」とありますのは、かつての旧約時代の預言者たちを讃めたたえるための記念碑のことです。そういう記念碑がイスラエルのいたるところに建てられていたわけです。ところが、あなたがた律法学者はいちばん大切なことを忘れていると主イエスは指摘なさるのです。それは、旧約の預言者たちは何よりも、この世界に対する神の救いの御業を、なわち、神の御子イエス・キリストの来臨と十字架と復活を宣べ伝えた人々であったという事実です。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・申命記1118節以下に、神の言葉である福音を正しく聴くことそが、全ての人の救いと平和と喜びと幸福に直結していることが示されています。しかし、私たち人間は本質的かつ生来的に御言葉に叛く性質を持ち、常に自分だけを中心にして歩もうとし、神から離れて生きることが真の自由であると心得違いをしている存在です。だから、神に対する叛きとしての私たちの罪の結果が、預言者たちを邪魔者して殺したのと同じ意味において、神の独り子イエス・キリストをも十字架にかけて殺さずにはおれなかったのです。それが律法学者たちの罪であり、同時に全ての人間に共通した罪の姿なのです。まさに主イエスが語られたように「(48)だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから」。

 

 まさにこの御言葉においてこそ、キリストの十字架の意味が明らかになるのではないでしょうか。罪の本質は神に対する叛きであり、私たちが自分を目的かつ中心として歩んだ結果、神の外に出てしまうことです。石川啄木が洞察したように、人間の死もまた「神の外でのみ起こる悲劇」なのです。

 

 それならば、そのような私たちの罪を贖い、私たちを救う唯一の救い主として、主イエス・キリストは、みずから神の外に出て下さいました。それがあのゴルゴタの十字架なのです。ある意味において、これはまさに畏れなしには語りえないことですが、神は主イエス・キリストにおいて、神でないものになられてまで、私たちを救って下さったのです。私たちの救いのために、永遠なる神が、有限にして死ぬ存在になって下さった。神が神の外に出て下さった。そようにして、神の外に出てしまった私たちを訪ね求め、これを見出し、これを贖い、救って下さった。それが、キリストが担われた十字架の意味なのです。

 

 この十字架の恵みを深く心に留めつつ、今日から始まる受難週を祈り深く過ごして参りたいと思います。そして来週の17日の日曜日には、ご一緒に、感謝と喜びの溢れるイースターを迎えたいと思います。祈りましょう。