af説    教            レビ記273033節  ルカ福音書114244

                「存在と当為」 ルカ福音書講解〔113

                 2022・04・03(説教22141954)

 

 「(42)しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」。ここには、まことに厳しく、忌憚のない主イエスの御言葉が響き渡っています。主が厳しい御言葉を語っておられる相手は、当時のユダヤの宗教的指導者であったパリサイ人たちでありましたが、もちろんそれは、今ここに集うている私たち一人びとりに対しても同じように語られてるのです。

 

 主イエスはここに、パリサイ人たちに対して、まず「(42)しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである」と告げておられます。この「わざわいである」というのは呪いの言葉などではなく「(あなたがたは)最も不幸である」という意味の言葉です。ですから主イエスはここでパリサイ人たちとここに集うている私たち一人びとりに対して「どうしてあなたは最も不幸な存在であり続けて良いだろうか?」と、救いと祝福への招きの御言葉を語り告げておられるのです。

 

 それでは、パリサイ人たちの「最大の不幸」とは、具体的にどのようなことをさしているのでしょうか?。42節をもういちど見てみましょう。「(42)しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」。ここで最後に語られている「これは行わねばならない」という言葉に注意して下さい。

 

つまり主イエスはパリサイ人たちに対して、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に記されている律法の規定は「なおざりにはできない」ものである。それは本来的にとても大切なものである。しかしそれよりももっと遥かに大切なことは「義と神に対する愛」であるとはっきりと告げておられるのです。それだからこそ彼らに、否、ここにいる私たち一人びとりに対して「これは行わねばならない」とおっしゃっておられるのです。言い換えるならそれは「存在と当為の問題」であると言うことができるでしょう。

 

「当為」というのはあまり聞きなれない言葉だと思います。それは「行為」と言い換えることもできますけれども「行為」と申しますとえてして私たちが「今日はこのような仕事をした」「今日はこのような出来事を経験した」というような単なる行いだけの問題になるのに対して、当為というのは主なる神の前に自分がいまいかなるものとして生きているか、生かされているか、そういう存在の本質にかかわる問題になる、そのような違いがあるわけです。やや哲学的な言葉、特に改革長老教会の牧師の家庭に生まれた哲学者・森有正の言葉を借りて申しますなら、ドイツ語でいうところの「体験=Erlebnis」と「経験=Erfahrungen」の違いという問題にも繋がるわけです。つまり、体験がただ単に「自分がしたこと」を意味するのに対して、経験は「私たちがそれをなすべく招かれいること」を意味するのでして、それは私たちの存在の本質に関わるとても重要な問題なのです。

 

 そこで私たちは、今朝の御言葉の続く43節と44節を改めて心に留めたいと思います。「(43) あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。(44)あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。ここで主イエスが繰返し「あなたがたは、わざわいである」とおっしゃっておられるのは「あなたがたは、どうして最大の不幸のままでいて良いだろうか」という意味であり、それは全ての人に対する救いと祝福への招きの言葉なのです。パリサイ人たちにとって、自分の存在理由は律法学者として人々からの尊敬を得ることでした。まさに43節にあるように、彼らは「会堂の上席や広場での敬礼を好んで」いたのです。

 

 それはどういうことかと申しますと、パリサイ人たちは、本来は神の言葉であり、十字架と復活のキリストのみを指し示す律法を、自分の言葉、自分をひけらかす言葉に変えてしまったのです。ようするに、神の言葉を聴いて生きる「経験」ではなく、自分の言葉を聞かせて人々からの尊敬を得る「体験」に満足と充足を見出していたわけです。そうすると、どういうことが起こるかと申しますと、パリサイ人たちは人間としての存在理由そのものを失う結果になりました。つまり、救いと祝福を失い、魂の抜け殻のような自分だけが残ったのです。それは同時に、この21世紀における日本と私たち全体にかかわる問題そのものなのではないでしょうか。

 

 若い人たちの間に「自分探し」という言葉が頻りに交わされるようになってもうかれこれ20年にもなるでしょう。人生を、本当の自分を探す旅路(なりたい自分を探す旅)に準えることそれ自体が間違っているとは私は思いません。問題はむしろ、たとえ私たちが、どこをどのように探してみても、自分の本質というものは決して捉えられないという事実にこそあるのです。そしてやがて全ての人々に平等に死が訪れます。それこそドストエフスキーが語っているように、本来的に全ての墓に刻まれるべき墓碑銘は「私はいったい何者で、どうして、なぜ死んでしまったのだ?」なのではないでしょうか。逆に言うなら、律法学者パリサイ人たちは、この人生における最大の問題に対して何ひとつとして確かな答えを出せずにいたわけです。だからこそ主イエスは彼らに対して「(44)あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」とおっしゃっておられるのです。私たちはどうでしょうか?。

 

 今朝の御言葉で大切なポイントは、主イエスは律法について「それもなおざりにはできない」とおっしゃっておられることです。なぜ律法が大切なのか、それは神の約束とその成就を示す福音の言葉だからです。私たちは律法が福音であるという認識をいつも正しく持っているでしょうか?。「福音はなおざりにはできない」のと同じ意味において「律法はなおざりにはできない」のです。そして、律法は何を私たちに示しているかと言いますと、それこそ主イエスが今朝の42節で語っておられる「義と神に対する愛」を明らかにしているものなのです。この「義」は隣人に対する義という意味に解釈されますけれども、元々のギリシヤ語を読み解くならば、それは神からの義、つまり使徒パウロがローマ書で語っている「イエス・キリストにおける神からの義=私たちに対する無償の救い」であることがわかります。

 

 そういたしますと、今朝の御言葉の中心は、十字架と復活の主イエス・キリストだということがわかるのではないでしょうか。1)律法は(モーセ五書は)本来的に福音として私たち全ての者に与えられた神の御言葉である。2)それは十字架と復活の主イエス・キリストのみをさし示している。3)だから、私たちは律法をなおざりにしてはならない。4)そしてあなたが行うべきことは、神からの義としての救いを受けることと、神の愛の中を神と共に歩むことである。5)それこそが私たちの行うべき本当の「経験」であり、神の義と愛を受けることによって、私たちの存在と人生は永遠の御国に結ばれたものとされる。以上の5つの事柄が、今朝の御言葉によって私たちに宣べ伝えられているのです。

 

 「(42)しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない」。この「行わねばならない」ことこそ、十字架と復活の主イエス・キリストに対する信仰告白なのです。祈りましょう。