説    教             申命記768節  ルカ福音書113741

                「聖潔に関する問答」 ルカ福音書講解〔112

                 2022・03・27(説教22131953)

 

 「イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。(38)ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。(39)そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。(40)愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。(41)ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。

 

 あるとき主イエスと弟子たちは、カペナウムに住んでいる一人のパリサイ人の家に招かれて食事をなさることになりました。ユダヤ教の伝統に従えば、人はまず食事の前に丁寧に手足を水で清めることが律法によって定められていました。それはもちん実際的な意味もあったと思いますが、なによりも古代イスラエルから伝えられてきた宗教的な「潔め」という意味が大きかったのです。今朝の38節に「食前にまず洗うこと」とあるのがその「潔めの儀式」を意味しています。要するに、この「潔めの儀式」を行うことは、自分が神を信ずる敬虔な人間であることを示すための社会的儀礼でした。特にそこは律法に厳しいパリサイ人の家であったことを鑑みるなら「潔めの儀式」を行わないという選択肢はあり得なかったわけです。

 

 ところが、なんということでしょうか。主イエスは(おそらくは弟子たちも)この「潔めの儀式」を行わなかった。今朝の38節をご覧下さい。「(38)ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った」。この「不思議に思った」というのはもちろん主イエスに対する批判の意味を含んでいます。実際にこのパリサイ人は、これは見過ごすことはできないと感じたのでしょう、そういう批判の思いはおのずから態度にも現れるものです。つまり、主イエスを歓迎する雰囲気は一転して冷遇へと変わりました。それをお感じになった主イエスは、今朝の39節以下の御言葉をこのパリサイ人にお語りになったのです。

 

 「(39)そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。(40)愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。(41)ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。主イエスがここでおっしゃったことの中心は40節の「愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか」にあります。神は私たちに肉体をお与えになったのと同じように、魂をもお与えになったではないかと、主イエスはパリサイ人に語りたもうたのです。律法主義は先祖から受け継いだ形式や言い伝えを順守することに拘泥するあまり、その本質を見失いやすいものです。それは一見したところ神に対する敬虔な信仰に見えますが、実はその本質は自己中心主義であって、自分と同じ生活様式を持たない者に対する容赦なき差別と裁きを生み出すものなのです。

 

 そもそも、なぜ主イエスは「潔めの儀式」を行わなかったのでしょうか?。それは、主イエスにとっては常住坐臥の全てが神と共にある聖なる生活だったので、生活上の全ての行いが常に潔いものだったからです。ジョン・ウェスレーという17世紀のイギリスの神学者が「我らにとって最も善きこと、それは神が共にいましたもうことである」と語っていますが、まさにその通りでありまして、もしも神が共にいましたもうならば、また、私たちが常に神と共にあるならば、私たちの生活の全てが「潔めの儀式」など必要としないものになるはずです。その逆に、もしも私たちの生活が神の御手から離れており、罪によって神に叛いているならば、たとえ私たちが毎日「潔めの儀式」を熱心に行おうとも、私たちは少しも幸いではなく、生命のない者にならざるをえないのです。

 

 私は少しだけ茶道を嗜むのですが、お茶を点てる時に最も大切なことはまさに今朝の御言葉において主イエスが言われたように「茶碗や盆の外側だけではなく、内側を清めること」であると思っています。たとえ茶道の点前においてどんなに所作が整っていようとも(つまりどんなに形式が整っていようとも)肝心な中身が潔められていなければ、それは茶道の精神から離れていると思うのです。いわゆる四規つまり「和敬清寂」という言葉が茶道の精神をもっとも端的に表しているものですが、それを利休の七則という言葉に敷衍するなら「茶は服(ふく)のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」に尽きるのだと思います。いずれにしても、形式も大切ですが、心はもっと遥かに大切なのです。

 

 さて、最後に少し視点を変えて今朝の御言葉を読んでみたいと思います。旧約聖書の申命記76節以下にこのように記されています。「(6)あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。(7)主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。(8)ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」。

 

 ここに明確に記されていることは律法の精神です。つまり、イスラエルの民に律法が与えられたのは、彼らが世界のどの民にもまさって強く、正しく、数が多かったからではないのです。むしろ事実はその逆でありまして、7節にあるように「(7)主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」のです。つまり、まことに取るに足らぬ小さな、価値のない群れを、神は敢えてお選び下さって「宝の民」として下さったのです。その理由は8節にはっきり告げられているとおりです。「(8) ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」。

 

 ここに「ただ主があなたがたを愛し」とありますが、この「ただ」の意味はとても大きいのです。ラテン語で申しますなら“Solus”です。ただ神の永遠にして不変の愛のみが私たちが選ばれた理由であるというのです。だからこそ、神は喜びの、自由の道しるべとして律法を与えて下さったのです。それは「あなたはこれらのことを行えば救われる」という掟ではなく、その逆に「あなたは選ばれ、救われた、宝の民であるから、新しい自由と喜びの生活を生きることができる」というのが律法の精神なのです。

 

 そして、大切なことは、この「(8) ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして」とは、いったい何をさし示しているのかと申しますと、それこそ十字架と復活の主イエス・キリストをさし示しているのです。つまり、神に叛いた罪人なる私たち、神の御前に無価値な私たちを、その無価値なる存在のあるがままに極みまでも愛したもうたお姿こそ、あのゴルゴタの十字架の主を示しているのです。徹頭徹尾、どこを見ても、今朝の御言葉によって私たちが見るのは、あの十字架の主イエス・キリストにおいて現わされた神の永遠の愛、しかも熾烈なまでに私たちを極みまでも愛したもう愛なのです。そのことをご一緒に心に深く留めつつ、今朝の41節の御言葉を改めて心に留めたいと思います。「(41)ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。祈りましょう。