説    教             箴言41819節  ルカ福音書113336

                 「内なる光」 ルカ福音書講解〔111

                 2022・03・20(説教22121952)

 

 「(33)だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。(34)あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。(35)だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。(36)もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。

 

今朝、私たちに与えられたこの主イエスの御言葉は、一見したところ難しい、なにやら禅問答のようにも感じられるものです。しかしよくこの御言葉を味わって読みますとき、実は主イエスはここで、私たちにとても単純な真理をお示しになっておられることがわかるのではないでしょうか。つまり、今朝の御言葉において明確に宣べ伝えられていることは「もしもあなたに“内なる光”があるなら、あなたはどんなことがあっても暗闇の中を歩くことがない」ということなのです。

 

 私には40年以上の付き合いになる全盲の友人がいます。いまは大阪に住んでいる人ですが、45年前に日本の大学の歴史において初めて、点字での受験が認められて大学に入学した人です。当時は新聞などでもかなり大きく取り上げられました。私はよく彼と一緒に東京のいろいろな場所に出かけましたが、道に迷うとよく彼に「どう行けば良いだろうか?」と訊ねたものです。すると彼は必ず即座に最も的確な道順を私に教えてくれました。私はあるとき「どうして君はそんなに東京の地理に詳しいんだ?」と訊いたことがあります。すると彼は笑って私に「ジョージ・フォックスの言う“内なる光”のおかげだよ」と答えました。当時、彼はフォックスという17世紀イギリスの神学者に興味を持っていろいろな本を読んでいたのです。このフォックスがしばしば「内なる光」という言葉を語っていて、それを彼は私への答えとしたわけです。

 

 実際に、当時の私は彼に道を教えてもらうたびに「(私と彼と)いったいどちらが盲目なのだろうか?むしろ私のほうが見えていないのではないか」とよく感じたものです。フォックスはのちにクェーカー(日本ではキリスト友の会、フレンド派と呼ばれています)の指導者になった人ですが、主なる神は私たちの魂に主イエス・キリストにより、聖霊を通して直接に語りかけたもう、そして神からの語りかけは常に「内なる光」として私たちに認識されるものであり、それこそが私たちの人生全体の歩みを照らす道標であると語っています。そしてフォックスはこの「内なる光」という言葉をまさに今朝のルカ伝1133節以下から導き出しているのです。特に35節と36節です「(35) だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。(36)もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。

 

 さて、私たちが聖書の御言葉を読むとき、とても大切なことのひとつは、その御言葉の前後の文脈を念頭において読むように習慣づけることです。そういう意味で聖書の通読ということもとても大切だと私は思います。さて、そのような意味で、今朝の御言葉の文脈は何かと申しますと、それは先週もご一緒に学びましたルカ伝1129節以下の「ヨナのしるし」なのです。つまり、主イエス・キリストは私たちに「ヨナのしるし」をお示しになって、御自身が全ての人の罪の贖いのために十字架にかかられ、三日目に墓から復活される救い主(キリスト)であられることを明確にお語りになったのです。

 

 そういたしますと、今朝の33節以下の御言葉は、十字架と復活の主イエス・キリストをさし示しているものだということがわかるのではないでしょうか。それはまさにジョージ・フォックスも明確に語っていることですが、キリストが十字架において私たちの罪を贖って下さり、全世界の救いのために復活して下さった「驚くべき唯一の恵み」を「内なる光」は私たち全ての者にさし示すものなのです。もし私たちがこの「内なる光」を持たなければ、たとえ私たちがこの世においてどんなに強大な権力と財産を所有しようとも、私たちは「闇の内を迷う憐れな罪人」にすぎません。逆に、たとえ私たちがこの世の歩みにおいてあらゆる物質的な富に欠乏していようとも「内なる光」に導かれて歩むなら、私たちの存在全体が明るく照らされて、私たちにはなにひとつ乏しいものは無いのです。十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちの贖い主としていつも共にいましたもうからです。

 

 さて、今朝のこの大切な御言葉において、私たちがもう一つ心に留めたいことは、主イエスが36節に「(36)もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」と語っておられることです。ここで主は私たち一人びとりに「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ」と告げておられます。私たちはこの御言葉を読んで、どのような理解を持つでしょうか?。おそらく私たちは「私の“内なる光”の領域がだんだん大きくなってゆくことを主は望んでおられるのだ」と解釈するのではないでしょうか。その理解も、間違いではないかもしれません。しかしどうか気を付けて下さい、ここで主イエスが語っておられる「内なる光」とは、私たちが作るものではなく、私たちのために十字架にかかられ、三日目に復活された主イエス・キリスト御自身のことなのです。

 

だからこそ主イエスは一人びとりに「もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ」と語っておられるのです。そして改めて私たちが33節に注目するなら、そこには「(33)だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく」と告げられています。つまりこの光は、見えるところに置かれるか、それとも隠されてしまうかの違いがあるだけです。光が照らす領域については主は何も語ってはおられず、むしろ「光が見えるところにあるか、それとも見えないところにあるか」の二者択一を語っておられるだけです。ということは、どういうことかと申しますと、私たちが十字架と復活の主イエス・キリストという「内なる光」を信仰という燭台の上に置くか、それとも見えないところに隠してしまうか、その二者択一が問われているわけです。

 

 私たちはまさに、十字架と復活の主イエス・キリストという「内なる光」を、信仰という名の燭台の上に置いて、私たちの全生活、全存在、全人生を照らす真の光とするためにこそ、ここに礼拝者として呼び集められているのではないでしょうか。つまり私たちは、信仰によって十字架と復活の主イエス・キリストを「わが主、わが救い主」と告白し、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、礼拝者として歩んでゆくことにおいてのみ「内なる光」を持つ者とされるのです。その光の領域が大きいか小さいかが問題なのではなくて、いま十字架と復活の主イエス・キリストを信じ、告白して、主の御身体なる教会に連なって歩む、信仰の姿勢こそが問われているのです。主は私たち一人びとりにいま新たに問いたまいます「汝は我を信ずるか?」と。

 

 その主の問いに、どうか私たちは信仰をもって健やかに答え続けてゆく群れでありたいと思います。私たちの外側が暗いと言って嘆き、不平不満を語るのではなく、私たちの内側に、つまり私たちの存在と生活の全体に十字架と復活の主イエス・キリストをお迎えして「内なる光」を持つ者にならせて戴きたいと切に祈り願います。まさにその祈り願いにおいてこそ、いつも健やかな、まっすぐな僕たちの群れとして、世の光、地の塩とならせて戴けるならば、それにまさる私たちの幸いと祝福はないのです。祈りましょう。