説    教             ヨナ書117節   ルカ福音書112932

                 「ヨナの徴」 ルカ福音書講解〔101

                 2022・03・13(説教22111951)

 

 ルカによる福音書を丁寧に読んで参りますとすぐにわかることですけれども、主イエスは人々に福音の御言葉を宣べ伝えられるとき、しばしば旧約聖書の講解説教という形でお話をなさっておられます。つまり、ルカによる福音書の中には(決してルカ伝だけではありませんけれども)主イエスがお語りになった説教の御言葉が数多く収められているのです。

 

そのような思いをもって、改めて今朝のルカ伝1129節以下の御言葉を読んでみますと、まず最初の29節と30節にこのように記されていることがわかります。「さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「(29)この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。(30)というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう」。

 

 ここには、ガリラヤ湖畔のカペナウムの人々が、主イエスがお語りになる説教の言葉を非常な期待と緊張感をもって聴こうとしていた様子がうかがえます。その人々に対して主イエスは旧約聖書のヨナ書の講解説教を通して神の国の福音を宣べ伝えたもうたのです。そして驚くべきことは、主イエスはこの説教の冒頭においていきなり、ご自身のことを語り始めておられることです。「(29)この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。(30)というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう」。

 

さて、ここで主イエスは「人の子」という、旧約聖書のダニエル書に出てくる大切な言葉をお用いになっておられます。これは旧約聖書においてキリスト(神に選ばれ、油を注がれた人)をあらわすときに用いられる特別な言葉で、主イエスはこの言葉をお用いになって、ご自身がキリスト(全世界の唯一の救い主)であられることを示しておられるのです。それでは、なぜ主イエスはダニエル書ではなくてヨナ書を通して説教をなさっておられるのでしょうか。その理由は29節にある「ヨナの徴」という言葉に明確に示されています。この「ヨナの徴」とはいったい何でしょうか?。

 

 その答えは、先ほど私たちが併せてお読みしたヨナ書117節にあります。「(17) 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた」。ヨナという人は主なる神によってニネベの人々に福音を宣べ伝える預言者として召されるのですが、ヨナはそれを嫌がってタルシシ行きの船に乗って神の召命から逃れようとするのです。タルシシというのは今日のジブラルタルのことだと言われています。要するに地の果てです。ところが、そのタルシシに向かう航海の途中で船は大嵐に遭遇しました。縁起を担ぐ船乗りたちは、ヨナこそ大嵐の原因を作った張本人だと言って怒り、ついにヨナを海に投げ込んでしまうのです。普通ならば、これで物語は終わりですね。いわば、地中海の真中で海に投げ込まれてしまった哀れなヨナの物語としてヨナ書は終わったはずです。

 

 しかし「人間のピリオドは神のコンマ」なのです。私たち人間が「これで一巻の終わりだ」というところで、神は私たちに新しい物語を歩ませたもうのです。すなわち、神は大魚(おそらくは鯨)を備えたもうてヨナを呑み込ませた。ヨナはこの大魚の腹の中に33晩いて、そのあいだ何をしたかと申しますと、神に向かって真剣に祈ったのです。それがヨナ書の2章全体に記されている祈りで、その最後の言葉は29節「(9) しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」です。それから神は大魚にお命じになって、ヨナを今日のエジプトのアレキサンドリアあたりの浜辺に吐き出させたのでした。ちなみにその場所は今日「ヨナの門」という地名になっています。

 

 そこで、このヨナが大魚の腹の中で真剣に祈りを献げた3日間のことを、主イエスは「ヨナの徴」と呼んでおられるのです。それは何を示しているかと言いますと、主イエス・キリストが私たち全ての者の罪の贖いのために十字架におかかりになって、死んで墓に葬られ、そして三日目に復活なさったことを現わしているのです。つまり「ヨナの徴」とは主イエス・キリストの十字架と復活のことを示しているのです。これはカペナウムの人々にもよくわかる譬えであったと思います。古代イスラエルの人々は(現代でもそうですが)幼い頃から聖書の御言葉をほとんど暗記するぐらい熱心に学んでいたからです。だから人々は主イエスのなさった説教で「ヨナの徴」と聴いたとき、すぐに「ああ、このかたは死んでから3日目に復活なさるかた、つまりキリストなのだな」と理解したことでした。

 

 まさにそのカペナウムの人々に、否、いまここに集うている私たち一人びとりに、主イエスは続く31節以下をお語りになるのです。「(31) 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。(32)ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。

 

ここで主イエスが「南の女王」と語っておられるのは有名なシバの女王(ビルケス)のことです。彼女はソロモンの知恵を聴くために遠く離れたエチオピアからイスラエルにやって来ました。そしてニネベ、これは今日のイラク北部、チグリス川の岸にあった古代アッスリアの大都会ですが、このニネベの人々はヨナの説教を聴いて悔改め、真の神を信ずる人々になったのでした。まさにこのシバの女王が、そしてニネベの人々が、あなたがた一人びとりにいま悔改めを宣べ伝えているではないかと主イエスは言われるのです。それと同時に、さらに大切なことは、主イエスがここで繰り返し「しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」「しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と語っておられることです。

 

 この「ソロモンにまさる者」「ヨナにまさる者」とはいったい誰のことでしょうか?。もちろんそれは主イエス御自身のことをさしているのです。なぜでしょうか?。シバの女王も、ソロモンも、人間にすぎせませんでした。同じように、ニネベの人々も、ヨナも、人間にすぎませんでした。しかし主イエス・キリストは永遠なる神の御子であられ、本質において御父と等しいおかたなのです。つまり、主イエス・キリストは真の神であられると同時に真の人間でもあられるおかたであり、その意味で、私たち人間の罪に最も深く連帯なさることができるばかりではなく、その私たちを罪と死の支配から贖い、真の解放と自由と平和を与えて下さる唯一の贖い主でありたもうかたなのです。

 

 もしもキリストが神性のみを持ち、人性を持っておられないなら、超越的な実在であることはできても内在的な贖罪主とはなりえず、この罪の世界と私たちには救いはなかったでしょう。それとは逆に、もしもキリストが人性のみを持ち、神性を持っていないかたであったなら、内在論的に私たちと連帯できても超越論的に私たちに罪からの救いを与えることはできず、そこにも私たちの救いは無いことになります。しかし主イエス・キリストは、ニカイア信条に告白されているように「真の神にして真の人」であられ「本質において御父に等しいかた」です。だからこそ内在性と同時に超越性を持っておらる唯一の贖い主、仲保者、キリストとして、私たち全ての者の罪を贖い救うことができるかたなのです。

 

 そのことを今朝の「ヨナの徴」は明確に私たちに告げているのでありまして、私たちは今朝のこのルカ伝1129節以下の御言葉によって、私たちに与えられている救いが確かなものであること、そして主イエス・キリストは、まさに私たち一人びとりの救いのために十字架におかかりになり、死にて三日後に甦られたかたであることを明らかにしているのです。祈りましょう。