説    教            詩篇11913節   ルカ福音書112728

                「神の言葉を聴きて守る人」 ルカ福音書講解〔109

                 2022・03・06(説教22101950)

 

 「(27)イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。(28)しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。主イエスがお語りになる神の国の到来の福音を聴いて、群衆の中にいた一人の女性が声を張り上げて申しました。「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。この女性はおそらく主イエスの母マリアのことをも知っていたに違いありません。

 

いえ、たとえマリアを知らなかったとしても、彼女は同じ女性として、どうしてもこれだけは言いたい、声を張り上げて叫びたい、と思ったことでした。「ナザレのイエスよ、あなたは本当に素晴らしいかたです。だから、私はあなたの母上と同じ一人の女性として言わずにはいられません。「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。つまり、この女性が言いたかったことはこういうことです。「ナザレのイエスよ、あなたの肉親は、特に母上は、なんて祝福された、幸いな人たちでしょうか!」。この言葉の背後には、自分も主イエスの肉親になりたい、しかしそれはできない、という諦めの気持ちがあります。

 

 ところが、この女性の賛嘆の言葉をお聞きになって、主イエスは彼女にこのようにお答えになったのでした。今朝の28節をご覧ください。「(28)しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。この主イエスの御言葉には、実は明確な旧約聖書の根拠があります。それが今朝あわせてお読みした詩篇1191節から3節です。「(1)おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。(2)主のもろもろのあかしを守り、心をつくして主を尋ね求め、(3)また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです」。つまり、古代イスラエルの預言者であった詩人はこのように詠っているのです。「全ての人々にまさって最も幸いな人、それは、神の言葉を聴きてそれを守る人である」。

 

 古代イスラエル、つまり、旧約の信仰に生きた人々の本当の凄さは、まさにこの詩篇1191節以下に現わされたような明確な幸福の価値基準を持っていたことです。あえてここに、私たち現代の、21世紀に生きる者たちが問われているのではないでしょうか。「あなたは人間としての真の幸福が、神の言葉を聴いてそれを守る人にあることをわきまえているか?」と。話は少し変わりますが、私は最近、トニー・エヴァンス(Rev.Tony Evans)というアメリカの黒人牧師の書いた本を読みまして、あまり期待せずに読んだのですが、自分でも意外に思えたほどの感銘を受けました。この人は長老教会の牧師であり、神学者ですが、その本の中で、自分が伝道者になったのは16歳の時のことだったと語っています。どういうことかと申しますと、私たち全ての者の罪の贖い主、つまり救い主は十字架と復活の主イエスただお一人だけだと知ったとき、自分はいても立ってもいられなくなって、大通りに出て、バス停でバス待ちのために並んでいた人たちに向かって説教をしたというのです。そしてその時、16歳だったトニー・エヴァンスの説教を聴いて、一人の男性が回心して教会に行くようになったと言うのです。私はそれを読んで、かのスポルジョン(Rev.S.Spurgeon)のことを思い起こしました。

 

 この本(信徒のための組織神学入門)の中で、この体験談と共に、トニー・エヴァンスはまさに、今朝私たちに与えられたこのルカ伝1128節を引用しています。「(28)しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。主イエスの肉親だから、親や兄弟や親戚だから、だから幸いだと言うのは、もはやキリスト教ではないのです。それと同じように、キリストや神について多くのことを知り、語り、また書けるから幸いだ、というのもキリスト教ではないのです。そうではなくて、本当に幸いな人たち、真に祝福された人たち、それは「神の言を聞いてそれを守る人たち」なのです。

 

これは国と国どうしの関係についても同じことが言えると思います。本当に幸いなのは、隣の国が自分の領土(自国の版図)だと主張する国または指導者ではないのです。そうではなくて、自分の国も隣の国も、神の御言葉を聴いてそれを守ることに国家の真の幸いがあり、また、国家として進むべき正しい道があるのです。もしその幸いを知っていれば、隣国に軍隊を送りこんで侵略するなどということは絶対に起こるはずはないのですし、また、それは国際法的にはもちろん、なによりも神の御前に許されないことだとわかるはずです。いみじくもカール・バルトが語ったように、真の世界平和と秩序は、私たち人類が神の御言葉を正しく聴き、それを守ることによってしか実現しないのです。

 

 なによりもいま、聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストみずから、ここに集う私たち一人びとりに語っておられます。「めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」と。そして、私たちはこの御言葉を原文のギリシヤ語で読み解くとき、ひとつの驚くべき事実に気が付きます。それは、主イエスがここで「御言葉を守る人たち」と語っておられるのは、いま主イエスの前にいる全ての人々をさしておられるという事実です。キリストの前にいて、御言葉を聴いている人々とはいったい何でしょうか?。それこそ主の御身体なる教会ではないでしょうか。

 

 宗教改革者たち、特にカルヴァンやブリンガーやエコランパディウスといった人々は、真の教会の徴として3つのことを挙げました。1)神の御言葉を正しく聴き、信仰をもって応える教会であり続けること。2)礼拝と聖礼典が御言葉に従って正しく執り行わいること。3)教会員全てが喜びと感謝をもってキリスト者の生涯を生き抜くこと。私たちはどうでしょうか?。いま、私たち一人びとりにも、この3つの大切な問いが向けられているのではないでしょうか。

 

 そして、大切なことは、それは、私たちの自分自身の知恵や力によって達成可能な事柄なのではなくて、私たちが日々キリストの恵みの御手に自分を委ねる信仰の歩みにおいてのみ達成可能なことなのです。現代の教会において、頭の良いキリスト者はたくさんいるかもしれません。賢いキリスト者もたくさんいるでしょう。社会的な地位や名誉のあるキリスト者も少なくないでしょう。誠実なキリスト者も少なくないでしょう。尊敬に値するキリスト者も少なくないでしょう。しかし私たちは敢えていまここに、自分たち自身に問いたいと思う。神の御言葉を正しく聴き、それを守るキリスト者が、私たちの中に多くいるでしょうか?。もしそうでないのなら、私たちは今日ここで信仰による決断をしたいと思うのです。祈りを新たになしたいと思うのです。主よ、願わくはわれら全ての者に、神の御言葉をいつも正しく聴き、それを守る魂を与えたまえと。

 

 この「守る」という字は元々のギリシヤ語で「生きる」という意味です。それならば「神の御言葉を正しく聴きてそれを守る人々」とは神の御言葉を正しく聴きて、それに喜んで生きる人々のことです。言い換えるなら、いつも喜んで神の御言葉に自分を委ねて歩む人々のことです。神の御言葉をいつも人生の指針とし、これに導かれ、励まされ、慰めと勇気を与えられて、どうか私たち全ての者たちが、キリストの僕たる弟子たちの生涯を全うする者たちにならせて戴きたいと思うのです。その志と祈りにおいて、いつも健やかな私たちであり続けたいと思います。祈りましょう。