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                「罪の行方とその救い」 ルカ福音書講解〔108

                 2022・02・27(説教22091949)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝1124節から26節の御言葉を、もう一度口語訳でお読みしましょう。「(24)汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、(25)帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。(26)そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。

 

 ここには、かなり複雑な出来事が描かれています。まず「汚れた霊」というのは私たち人間の罪のことをさしています。しかも、それは常に複数であり、中には「レギオン」という名前を持つ者がいるように、非常に数多くの罪によって私たち人間が支配されている様子をあらわしています。要するに私たち人間は罪において一筋縄では行かない複雑な存在であり、その救いについてはほとんど絶望的な者たちであることが示されているわけです。

 

 ともかくも、そのような数多くの罪=「汚れた霊」が、ある人から出てゆくということが起こりました。その理由については今朝のルカ伝の御言葉からはわかりません。しかし「汚れた霊」に憑りつかれていた人にって、それは束の間の安息であるにすぎませんでした。なぜなら「汚れた霊」はその人から追い出されたのではなく、むしろ自分の意志によって一時的にその人を離れただけであったからです。どうぞ改めて24節と25節をご覧ください。「(24)汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、(25)帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった」。

 

 譬えて申しますなら、家の中が不必要な物で溢れ、ごちゃごちゃしているのに嫌気がさした人が、一時的に旅行に出たのと同じ状態なのです。この人は旅先でそれとなくお気に入りの家を探してはみるのですが、もちろん家がポンと買えるような経済的な余裕などあるわけもなく、結局はもといた家に戻ってきたのでした。ところが、玄関を開けてびっくりしたことに、なんとモノに溢れてごちゃごちゃしていたはずの我が家がすっかり片付いてキレイになっていた。それこそ今朝の25節にありますように「(25)帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった」のでした。

 

 それで、その人は(汚れた霊=罪)はすっかり気を良くしまして、今朝の26節にあるように「(26)そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。つまり、どういうことが起こったかと申しますと、この「汚れた霊」は「自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて(その家の)中に入り、そこに住み込むことにした」わけです。これが、今朝のルカ伝1124節以下の御言葉において、主イエス・キリストが私たち一人びとりに語っておられる福音の御言葉です。

 

 そこで、この複雑なたとえ話がさし示している福音のメッセージはどういうものなのでしょうか?。私は今朝のこの御言葉を読むたびに、思い起こす一つの言葉があります。それはかつて、私たちの大先達である植村正久牧師が語った「腐った鯛ほど始末に負えぬものはない」という言葉です。昔から「腐っても鯛」と申します。この「鯛」を教会、またはキリスト者、に置き換えてみましょう。「腐っても教会」または「腐ってもキリスト者」そういうことを私たちは神の御前に胸を張って言えるだろうかと、植村正久牧師は改めて私たち一人びとりに問うているわけです。

 

 結論から申しますと、植村正久牧師は「むしろ、全く逆なのではないか」と言っているのです。「世間では“腐っても鯛”と言うけれど、実は腐った鯛ほど始末に負えぬもの、鼻持ちならぬものはないのではいか」。私たちはそこまで聴いて初めて納得するのではないでしょうか。本当にその通りではないか。我々は腐っても教会だ、クリスチャンだと、そういう虚しい虚勢を張ることが果たして神の御前にできるだろうか?。むしろ事実は逆で、腐った教会、腐ったクリスチャンほど、始末に負えぬものはないのではないだろうか。私はあえて実例を挙げようとは思いません。これは実は、今ここに集うている私たち一人びとりに、主がいま語り告げていて下さることなのです。

 

 では、私たち一人びとりが「腐った教会」「腐ったクリスチャン」にならないためには、どうしたら良いのでしょうか?。実はその答えは今朝のルカ伝の御言葉の中にあります。汚れた霊が(つまり私たちを支配していた罪が)旅から戻ってきますと「その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった」と書いてあります。つまりこの家は、きれいに掃除がしてあったのですが空き家でした。誰も住んでいなかったのです。だからこそ「汚れた霊」は喜んだわけです。しめしめ、こんなにキレイに掃除がしてあるのだから、仲間の悪霊どもを引き連れてきてここに一緒に住もうと思い、実行したわけです。

 

 それと同じことが、教会に、また、私たち一人びとりにも、起こることはないと言い切れるでしょうか?。私たちはそこで「腐った鯛」になってしまうことは無いと言い切れるでしょうか?。私たちの教会は、そして私たちキリスト者は、空き家になってはいけないのです。もしも空き家になったら、その状態は以前にもまして酷いものになるのです。なぜなら悪霊が「自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む」からです。そうならないために、いま、いつも、これからいつまでも、私たちに何が必要なのでしょうか?。答えはただ一つです。

 

 ただキリストのみが主でありたもう家に、教会に、私たちに、ならせて戴くことです。特にこのことを私たち改革長老教会は大切にしてきました。教会の唯一のかしらは十字架と復活の主イエス・キリストなのです。私たちの教会にはキリスト以外に主があってはならないのです。同じように、私たちキリスト者の人生の主も、十字架と復活の主なるイエス・キリストのみなのです。言い換えるなら、私たちの教会はただ恵みによって召された聖徒の交わりであり、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる「主の教会」なのです。教会のことを英語でChurchと言い、またドイツ語ではKircheと言いますけれども、その元々の語源は古典ギリシヤ語のKuriacos(主の家)です。つまり、キリストのみが主である時にのみ教会は教会でありうるし、その逆にキリストのみが主でなくなったなら、その教会は植村正久牧師が語るように「腐った鯛」となる以外にないのです。

 

 まさにその点から申しますなら、聖霊によっていま私たちに福音を語っておられる現臨の主イエス・キリストは、私たち一人びとりに対して「私はあなたがたを見捨てて去ることは絶対にない」と宣言していて下さるのです。マタイ伝の2818節から20節を心に留めましょう。「(18)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(19)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、(20)あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。