説    教       イザヤ書531112節  ルカ福音書112123

               「強奪される家の譬え」 ルカ福音書講解〔107

               2022・02・20(説教22081948)

 

(21)強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。(22)しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。(23)わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである」。主イエスと言うかたは本当に驚くべきおかたです。今日はなんと「強盗の譬え」をお用いになって、私たちに神の国の福音をお語りになるからです。

 

まず主イエスは21節にこう言われました。「(21) 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である」。ここに「邸宅」とありますからには、経済的にも社会的にも裕福であり、大きな家屋敷と使用人たちを抱えていた、そのような人の家であった様子がうかがえます。石川五右衛門も語っておりますように「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きせじ」でございまして、昔も今もこのような邸宅にとって強盗は最も歓迎されざる客でありましょう。それですから、この邸宅の主人は「十分に武装して」強盗どもが侵入できないように事前に対策を講じていたわけです。

 

 しかし、いつの世にも悪人のほうがなぜか上手を行くものでありまして、それこそ今朝の22節にありますように「(22)しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである」と主イエスは言われるのです。邸宅の主人は強盗の侵入を警戒して武装していたのですし、場合によっては何人ものガードマンを雇っていたかもしれません。ところがその邸宅に侵入しようとする強盗どもは、もっと強力な武器を手にしていましたし、まずこの邸宅の主人を縛り上げて、無力化して、悠々と仕事に取り掛かろうという算段でやって来たものですから、

 

そうなってはもう、いかに手立てを尽くした邸宅といえども、あっけなく強盗どもの餌食となり、主人やガードマンたちは縛り上げられてしまいますし、用意していた武器もあっけなく奪われてしまい、妻や子供たちや使用人たちは恐ろしさのあまり逃げてしまい、家財は奪われ、金品は強奪され、もう目も当てられぬ状況になってしまった、そういうことを主イエスは今朝の「強奪される家の譬え」で語っておられるわけです。

 

 さて、そこで、主イエス・キリストは、この「強奪される家の譬え」でいったい何を私たちにお語りになっておられるのでしょうか?。もともとこの譬えが語られた背景は、先週もお読みしましたけれども14節以下に記された、悪霊に憑りつかれた人を主イエスがお癒しになった出来事です。「この男は(主イエスは)ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのだ」と誹謗中傷したパリサイ人らに対しまして、主イエスは彼らをも救いへと導きたもう目的をもって今朝のこの「強奪される家の譬え」をお語りになったのです。特に大切なのは20節に主イエスが「(20)しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」と宣言しておられることです。

 

 言い換えるならば、主イエスの御心は(願いは)いつも決してブレないのです。それは私たち全ての者が真の神を知る者となり、神の愛と恵みにあずかり、救われて御国の民とされることです。神の国は、神の恵みの永遠の御支配は、私たちがどんなに悲惨な望みなき状況の中にありましょうとも、私たちの全存在を根底から救う神ご自身の御業として今ここに来ているのです。それが、いま主イエス・キリストが私たちのもとに来ておられるという事実です。主イエスはいま、私たち全ての者のために十字架を担いたもうおかたとして、私たちと共にいて下さるのです。

 

 そういたしますと、私たちにも今朝のこの「強奪される家の譬え」が何を物語っているのか、わかってくるのではないでしょうか。どうか逆転の発想でこの譬え話を聴いてみて下さい。邸宅の金銀財宝を奪う強盗どもは、実は悪魔の(悪霊の)支配から私たちを解放し、自由と平和と救いを与えて下さる神の御業そのものとしてここに描かれているのです。邸宅の主人は悪魔の譬えであり、強盗どもは父と子と聖霊なる神による救いの御業の譬えです。たとえ悪魔がいかに強固な力と意思をもって私たちを捕らえていようとも、主なる神は(父と子と聖霊なる三位一体の神は)それにはるかにまさる救いの御力をもって悪魔の邸宅から私たちを強奪し、解放し、自由と平和と救いを与えて下さるのです。

 

 この驚くべき譬え話の理解のために、もうひとつぜひとも私たちが心を留めたいのは、旧約聖書のイザヤ書5311節と12節の御言葉です。「(11)彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に獲物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。ここにも「強奪される家の譬え」が救いの出来事の象徴として描かれています。

 

 しかも、さらに驚くべきことには、ここで預言者イザヤが語っている「義なる僕」つまり神の永遠の御子イエス・キリストは「多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」かたであると明確に告げられています。これは私たちの罪の贖いのために、主イエスみずから十字架におかかりになって、完全かつ唯一永遠の救いを成就して下さったことを示しています。それならば「強奪される家の譬え」は十字架の主イエス・キリストをさし示すものなのです。だからこそ預言者イザヤは12節にこう語っているのです。「(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に獲物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。

 

 主イエス・キリストは、私たち全ての者の救いのために、邸宅を強奪する強盗にも譬えられる絶大な力と権威をもって、さらに言うなら、植村正久牧師の語る「非常なる手段をもって」私たちを罪と死の支配から贖い、解放し、真の自由と平和と救いを与えて下さるために、呪いの十字架を身に負うて下さったキリストなのです。私たちはこのキリストの十字架による贖いによって救われ、主の御身体なる聖なる公同の使徒的な教会の一員とされ、復活の生命に連なる僕とされた者たちなのです。祈りましょう。