説     教          申命記910節  ルカ福音書111420

                「神の国の到来」 ルカ福音書講解〔106

                 2022・02・13(説教22071947)

 

 「(14)さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。(15)その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、(16)またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた」。

 

今朝、私たちに与えられたルカ伝1114節以下には、まずこのように記されていました。場所はおそらくガリラヤ湖畔のカペナウムであったと思われますが、「物を言えなくする霊」つまり「悪霊」に憑りつかれていた一人の人がいて、主イエスがその人から悪霊を追い出してお癒しになり、言葉を話せるようにして下さったのです。ところが、その癒しの御業を見た群衆は「不思議に思った」というのです。ここまでなら、まあ普通の人々の反応です。ところが、さらに進んで15節と16節を見るとこう記されています。「(15)その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、(16)またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた」。

 

 これは、明らかに不信仰から出た言葉、罪に由来する言葉なのではないでしょうか?。特にこの15節の「その中のある人々」とは、パリサイ人のことをさしていると思われます。既に主イエスは荒野におけるサタンの誘惑を退けたもうたとき、サタンに対して「主なるあなたの神を試みてはならない」と宣言なさいました。神を試みるとは、自分が主に(つまり神に)なっているということです。試みるとは、テストをするということです。つまり、今朝の15節以下の場面において、カペナウムの人々は主イエスに対して「我々がおまえをテストしよう。それに合格したら、お前がキリストだということを認めてやろう」と語ったわけです。それが「天からの徴を求めた」ということです。

 

 それだけではありません、人々は主イエスがなさった癒しの御業について「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言ったのでした。ベルゼブルというのはアラム語ですが、直訳すると「蠅の王」という意味の、いわば卑俗な汚い言葉です。さらに、当時のユダヤの人々の言い伝えによれば、ベルゼブルはサタンの手下ということになっていました。ということは、ここで人々は主イエスのことを「この男はサタンの手下の一人だ」と言ったわけです。そして、サタンの語源はまさに「誘惑する者」なのですから、人々は主イエスがなさった癒しの御業について「この男は悪魔の誘惑に屈した結果、そのような不思議な力を持つようになったのだ」と噂し合ったわけです。

 

 この、まことに不信仰な人々、罪を犯している私たち一人びとりに対して、主イエスは17節以下にこのようにお答えになりました。「(17)しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。(18)そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、(19)もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。(20)しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。

 

  つまり、主イエスはこう言われるのです。もし、ひとつの国の中に複数の政府(政権)があって互いに対立するなら、その国は自滅するほかないであろう。また、ひとつの家の中に2人以上の家長が存在して対立するなら、その家は立ち行かなくなるであろう。それと同じように、もしもサタンの手下であるベルゼブルが仲間の悪霊どもを追い出して癒しの御業を現わしているとするなら、それこそサタンが内部分裂を起こしていることになるではないか。そしてさらに主イエスは19節以下にこう言われます。「(19)もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。(20)しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。

 

 ここで私たちが注目すべきは「神の指によって」という言葉です。今朝併せてお読みした申命記910節に、このようにございました。「(10) 主は神の指をもって書きしるした石の板二枚をわたしに授けられた。その上には、集会の日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられた言葉が、ことごとく書いてあった」。芥川龍之介が語っていますように、指は時に言葉以上に雄弁に人の心を物語るものです。それならばなおさら、旧約の申命記において「神の指」とは十戒を授けたもうた神の救いの御業を物語るものなのです。ですから主イエスが20節に「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」というのは非常に力強い表現です。主イエスの御心と神の御心との間には些かの齟齬も分裂も矛盾も無いのです。主イエスがなさっておられる癒しの御業は、私たち全ての者に対する救いの御業そのものなのです。

 

 さらに申しますなら、サタン(悪魔)は絶えず対立と分裂と混乱を引き起こすのに対して、主なる神は癒しと救いと慰めと一致をお与えになるかたなのです。そして何よりも、私たちが心を留めたいことは、主イエスが20節において「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」と明確に宣言して下さったことです。この「あなたがた」にはカペナウムの群衆はもちろんのこと、主イエスを誹謗中傷するパリサイ人たちも、ここに集うている私たち一人びとりも、みな含まれています。その、まさにここにいる私たち一人びとりのもとに「神の国は既に来ている」と主イエスは宣言して下さるのです。ですからこれは、私たち全ての者に対する神の側からの(一方的な)救いの宣言です。それこそ “Dennoch=それにもかかわらずとしての福音の本質を示す御言葉なのです。

 

 さらに言いますなら、主イエスが語っておられることはこういう意味です。サタンの国は絶えず分裂し混乱する以外にないが、神の国は全ての人々に対する救いと祝福の御業において完全に一致しており調和しているのだ。まさにその、神の国の完全な一致と調和の中に、いまあなたがた全ての者たちが招かれている。否、神の国そのものがいまあなたのところに来ているではないか。私があなたから悪霊を(罪の支配を)駆逐し、あなたの存在全体を神の恵みの永遠の御支配のもとに回復するとき、あなたのただ中にいま神の国が実現しているのだ。あなたこそは神の国の一員として神がお立てになりお選びになった人なのだ。そのように主イエス・キリストははっきりと宣言していて下さるのです。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。祈りましょう。