説     教         エレミヤ書15節  ルカ福音書111113

                「天の父はなおさら」 ルカ福音書講解〔105

                 2022・02・06(説教22061946)

 

 今朝私たちに与えられたルカ伝1111節から13節までの御言葉を、もう一度口語訳でお読みしたいと思います。「(11)あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。(12)卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。(13)このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

 

 我らの主イエス・キリストは、とてもわかりやすい身近な譬え話をお用いになって、私たち全ての者に福音の奥義を語り伝えて下さいます。まず主イエスは11節に「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか」と問いたまいます。この「父」はもちろん「母」と読み替えても良いのです。「子供にとって親である者たちは、わが子が魚を求めている時、魚の代わりに蛇を与えるであろうか?。わが子が玉子を求めている時に、サソリを与えるであろうか?」と主イエスは私たち一人びとりに問いたもうのです。

 

そして主イエスは最後の13節でこのようにお語りになります。「(13) このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。たとえ「悪人」と呼ばれる人であったとしても、自分の子供、わが子に対しては、悪いものは与えないだろう。むしろ、少しでも良いものを与えようとするではないか。それならば「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と主イエスは私たち一人びとりにお教えになっておられるのです。

 

 ここで私たちが注目したい言葉は「なおさら」という表現です。特にこの13節はルター訳のドイツ語の聖書ではこのような訳になっています。“So denn ihr, die ihr arg seid, könnet euren Kindern gute Gaben geben, wie viel mehr wird der Vater im Himmel den heiligen Geist geben denen, die ihn bitten!” (あたかも悪そのものであるあなたがたでさえ、自分の子供たちには良い贈り物をするとするならば、天の父はどれほど多くの聖霊を、求める者たちに与えて下さることだろう)。ここでわかりますように、ルターは私たち日本語の聖書で「なおさら」と訳したところを「どれほど多くの」と訳して、しかもそれを聖霊に繋げています。つまり、ルター訳のドイツ語の聖書に従って今朝の13節を直訳するなら、このような言葉になるのです。「(13) あたかも悪そのものであるあなたがたでさえ、自分の子供たちには良い贈り物をするとするなら、天の父はなおのこと、どれほど多くの聖霊を、求める者たちに与えて下さることだろう」。

 

 ところで、日本語の「なおさら」という言葉には、いささか曖昧さがあるのではないでしょうか。つまり、一概に「なおさら」と言われても、その程度がどれほどのものなのか、前後の文脈によってかなり違ってしまうということがあると思うのです。たとえぱ「あなたにできないのなら、なおさら、私になどできるわけがない」と言いますと、それは曖昧を通り越して否定的な言葉になります。

 

ところがルター訳のドイツ語の聖書でこの13節を読みますと、そこには少しの曖昧さもありません。「(13) あたかも悪そのものであるあなたがたでさえ、自分の子供たちには良い贈り物をするとするなら、天の父はなおのこと、どれほど多くの聖霊を、求める者たちに与えて下さることだろう」。ここに告げられているのは、天の父、すなわち私たちの唯一の神が、私たちの救いのために、どんなに確かなことを成し遂げて下さったかという事実そのものです。たとえ悪人と呼ばれる人間でさえ、否、あたかも悪そのものであるあなたがたでさえ、自分の子供たちには良い贈り物をするとするなら、天の父はなおのこと、どれほど多くの聖霊を、求める者たちに与えて下さることだろうか。

 

 そもそも、主イエスはどのような文脈で今朝の11節以下を私たちにお語りになっておられるのでしょうか。それは主イエスが私たちに「主の祈り」をお教え下さった文脈においてです。「主の祈り」の言葉を私たちに教えて下さったことに続いて、さらに先週お読みした5節以下において、主イエスは私たちに「諦めないでしつこく祈り続けるべきこと」をお教えになりました。主イエスははっきりと断言して下さるのです。「あなたが祈り求めることに遥かにさまさって、神はあなたの祈りを実現し、かなえて下さるかただ」と!。だからこそ「あなたは諦めないで、しつこく、絶えず、祈り続けなさい」と、主イエスは私たち一人びとりにお教えになっておられるのです。なぜなら、たとえ悪人と言われる人間であっても、自分の子供たちには良いものを与えようとするのなら、天の父なる神はなおさら、どれほど多くの聖霊を、求める者たちに与えて下さることだろうか。

 

 そのことと併せて、私たちが今ぜひとも心に留めたい御言葉は、旧約聖書のエレミヤ書15節です。「(5)わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。これは青年であったエレミヤが預言者として神の召命を受けたときに神が語りもうた言葉です。これを見ますと、エレミヤを預言者としてお召しになった神は「あなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り」と彼に語っておられます。私たちの存在の根本には、主なる神による選びの恵みがあるのです。これは言い換えるなら、主なる神は永遠の変わらぬ御意志をもって私たちに救いと生命を与えて下さるかたであるという事実が告げられているのです。カルヴァンの言葉で申しますなら「神の恵みは絶対的に私たちの破れに先行する」のです。私たちの罪がどんなに強く私たちの存在を滅びへと引き込もうとしても、神の恵みは永遠なる聖なる救いの御意思に基づいていて、私たちの破れ(罪の現実)に絶対的に先行しているのです。カルヴァンが語る予定説も「神の恵みの絶対的な先行」を明らかにしているものなのです。

 

 そういたしますと、今朝の御言葉において私たち一人びとりに告げられている「なおさら」とは、並々ならぬ重要な御言葉だということがわかってくるのではないでしょうか。それは何かと比較して私たちに語られている言葉ではないのです。程度の問題でもないのです。それは十字架の主イエス・キリストによって現わされた、私たち全ての者に対する「神の恵みの絶対的な先行」を告げている言葉なのです。だから、4年前の夏に天に召された私の友人である水野穣牧師が何かの折に「この“なおさら”というのは“Dennoch”(それにもかかわらず)という意味だよな」と言った言葉を私は思い起こしているのですが、まさに主なる神は十字架の主イエス・キリストによって“Dennoch”(それにもかかわらず)をはっきりと語り告げていて下さるのです。

 

 すなわち、主イエスはいま、私たち全ての者にこう言われるのです。「あたかも悪そのものであるあなたがたでさえ、自分の子供たちには良い贈り物をするとするなら、天の父はなおのこと、あなたがたのその罪の現実にもかかわらず、どれほど多くの聖霊を、求める者たちに確かに与えて下さることだろう」。しかもそれこそ、主なる神の永遠の選びの恵みそのものなのです。私たちの救いと祝福、そして救いと祝福に基づく永遠に確かな生命と幸福こそが、神の私たちに対する永遠の御意志である。「神の恵みは絶対的に私たちの破れに先行する」ではないか。だから、あなたは、祈り続ける者でありなさい。祈りにおいて大胆に神に自分を投げかけなさい。そうすれば、神は最も良いものであなたに与えて下さる。それは聖霊である。聖霊があなたに与えられるということは、あなたが永遠に神の勝利と祝福の御手の内にあることの確かな徴なのです。

 

 「(11)あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。(12)卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。(13)このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。祈りましょう。