説     教          詩篇3015節  ルカ福音書11510

               「求めよさらば与えられん」 ルカ福音書講解〔104

                 2022・01・30(説教22051945)

 

今朝、私たちに与えられたルカ伝115節以下の御言葉を、もう一度、口語訳でお読みしたいと思います。「(5)そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。(6)友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、(7)彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。(8)しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。(9)そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(10)すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。

 

 今朝のこの御言葉は、聖書の中でも最もよく知られているものの一つではないでしょうか。特に9節の「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」という御言葉は、教会に行ったことが無い人であっても、一度は聞いたことがある御言葉なのではないかと思います。私が中学生の時、たしか私が14歳の時のことですけれども、社会福祉の分野で大きな功績を残した人が来て、全校生徒を集めて講演をしたことがありました。その時の講演の題が「求めよさらば与えられん」でした。もちろんその人はクリスチャンで、このルカ伝の御言葉が困難な人生を導き、切り開いてくれた、そういう内容の話でした。講演が終わった後で私の中学の校長先生が感極まったような感じで「求めよさらば与えられん。これは本当に素晴らしい言葉です」と語られたのを聴いて、あれ?この校長先生クリスチャンだったかなあ?と、私は不思議に思ったことも覚えています。

 

 いま思い返しますと、その時の講演が、私がこのルカ伝119節に出会った最初の経験でした。しかし、当時14歳の、しかも公立中学校に通っていた私にとって、この御言葉は言葉それ自体の響きとしては、あまり良い印象のものではありませんでした。むしろ私は「求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、さらば見出さん、門を叩け、さらば開かれん」これはなんだかずうずうしい乞食の言葉みたいで、押しつけがましくて(高圧的で)嫌だと率直に感じたことでした。この9節の御言葉の意味が私に理解できたのは、私が農学校で学んでいた16歳の時に、友人の突然の逝去という経験を通して、みずから聖書を真剣に読み始め、そして教会の礼拝に出席するようになってからのことでした。それは今から思い返しますと、この御言葉に対する視点が変わったからでした。つまり、それまでは他人の言葉(キリストという過去の偉人の言葉)としてしか読んでいなかったものが「では、お前はどうなのか?本当に求めるべきものを求めているのか?」と、神によって問われていることに気が付いたからでした。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは「神の前に私は常に乞食である」と語りました。その意味は、唯一の生命の糧である御言葉を食べなければ生きてゆくことができない存在だということです。それはさらに申しますなら、自分自身を富ませる何物をも持ちえず、自分自身の誇りとなるべき何物をも持たず、ただ主なる神に求め、尋ね、門を叩く以外にありえない存在だということです。それは、私たち自身についても、全く同じことが言えるのではないでしょうか。私たちもまた、否、私たちこそ、ルターが語っているように、神の御前では一人の乞食であるよりほかになく、自分自身を富ませる何物をも持ちえず、自分自身の誇りとなるべき何物をも持たず、ただ主なる神に求め、尋ね、門を叩く以外にありえない存在なのではないでしょうか。そして実は、このルターが語る乞食のイメージは、同時に赤ちゃんのイメージに繋がります。

 

赤ちゃんは泣く以外に言葉というものを持たない、それと同じように、私たちも神の御前に泣く以外に言葉を持ちえない存在である、このことを内村鑑三は「求安録」という本の中でこのように語っています。「しからば我は誰なるか?。夜暗くして泣く赤子、光欲しさに泣く赤子、泣くよりほかに言葉なし」。これは「それで良いのだ」という開き直りの言葉などではありません。神の御前に、御言葉の光によって自分を顧みるとき、私たちはいつも、常に「夜暗くして泣く赤子、光欲しさに泣く赤子、泣くよりほかに言葉なし」という現実だけがあるのです。社会的かつ常識的な論理性を超越した「呻き」としか言いようがない根源的な飢え渇きを、私たち全ての者が持っているのではないでしょうか。

 

 それならば、まさにその根源的な飢え渇きが満たされるか否かということこそが、私たちの人生にとって最大の問題になるのです。ミルクが欲しくて泣く赤ちゃんを放っておくなら、その結果は戦慄すべき悲惨なものにならざるをえないでしょう。実際にそれに類する悲惨な事件が最近ありました。しかし、その悲惨さを理解できる私たちであるにも関わらず、どうして御言葉の生命の糧を戴く主日礼拝を、社会的常識的な論理性の二の次に置こうとするのでしょうか?。言い換えるなら、どうして私たちは、主なる神の御前に泣く赤子であるよりも、既に満たされ満足してしまっている人間であるようなそぶりを見せようとするのでしょうか?。パリサイ人たちがそのような人々でした。彼らは、自分たちは神に選ばれた人間たちであると自惚れ、律法を守ることができない人々を「滅びるべき地の民」と呼んで蔑み、その叫びを無視したのでした。

 

 まさに、そのような私たち一人びとりに、いま主イエス・キリストははっきりと語り告げて下さいます。「(9)そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(10)すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」と!。そして、しつこくパンを願う友人の譬えを語って下さいました。深夜、家族がみんな寝静まった頃に、一人の友人が来て「どうかパンを3つ貸してくれ」と頼むのです。その家の主人は、もうみんな寝床に入っているから、明日の朝来てくれと頼むのですが、その友人はしつこくパンを頼み続けました。そこでこそ主イエスは私たちにお教えになります。8節です。「(8)よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」。

 

 人間の友人でさえ、社会的・常識的な論理性を超えた、無理難題の願いを、しかも友人だからという理由を超えて「しつこく頼むから」という理由でかなえてくれる。だとすれば、主なる神はどうであろうか?。私たちが声にもならない叫び、呻き、泣き声をもって求め続けるものを、唯一の生命の糧である御言葉を、喜んで与えて下さらないことがあるだろうか?。そのように主イエスははっきりと言われるのです。お教えになるのです。神はそういうおかたなのだ。私たちに最も必要な生命の糧を、私たちがそれを求める先に知っていて下さり、それを私たちに喜んで与えて下さる、豊かに与えて下さる、それが主なる神の御心なのだ。

 

 だから、わが子よ、安心して祈り続けなさい。叫び続けなさい。求め続けなさい。「(9)求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(10)すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。ここにこそ、私たち全ての者たちに対する主なる神の、限りない愛の御心が現れているではないか。神は必ず、私たちの願い求めに応じて、私たちが願い求めているよりももっと多くのものを、豊かに与えて下さるではないか。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ伝1232)。私たちの救い主・贖い主なる神は、いつも私たちを限りなく愛し、私たちの求めに遥かにまさるものをもって、私たちの根源的な必要を満たして下さるかたなのです。