説     教           ルカ福音書1114

                「御国と権威と栄光」 ルカ福音書講解〔103

                 2022・01・23(説教22041944)

 

 主の祈りの最後にある頌栄は「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」です。実はこの最後の頌栄は、全世界の全ての教会が等しく献げているものではないのでして、たとえばローマ・カトリック教会やアングリカン(聖公会)などの教会では省略した形の主の祈りが献げらげられています。そのひとつの理由としては、ローマ・カトリック教会が唯一の正典として扱ってきたヴルガータ(Vulgat)というヒエロニムス訳のラテン語聖書の中にはこの頌栄は出て来ない、というのが根拠になっていると思います。

 

 では、いつごろ、どのような経緯で、この最後の頌栄の部分が加えられたのかと申しますと、実は既に3世紀の終わり頃に、東ローマ帝国(ビザンチン帝国、今日のトルコ、イラク、シリア、レバノン、イスラエルあたり)の諸教会で用いられていた“Textus receptus” (受け入れられたテキスト) という名のギリシヤ語訳の旧新約聖書の中に、この最後の頌栄が含まれていました。ですから、そのテキストを底本として翻訳された15世紀以降の、特に宗教改革時代の英語、ドイツ語、チェコ語、ポーランド語、ハンガリー語などの聖書の中には、必ずこの頌栄(祈り)が含まれるようになり、それを今日の私たちは受け継いでいるのです。

 

 もう少し詳しく申しますと、私たちの教会は宗教改革の伝統に立つ西方教会のプロテスタント教会(改革派教会)でありますから、当然のことながら「国と力と栄とは限りなく汝のものればなり」を大切な信仰の遺産として受け継いでるわけです。さて、そこで出されるひとつの大きな問いは、では私たちはこの頌栄の言葉をきちんと理解して、わかって、胸に収めて、心の底から感謝をもって、神に献げる祈りの言葉としているかどうかということではないでしょうか。私たちは今日ここで改めて問われていると思うのです。「国と力と栄とは限りなく汝のものればなり」これを私たちはただ単に習慣的・機械的に唱えているだけなのか、それとも、心の底からの讃美頌栄として告白しているのか。

 

 そこで、改めて私たちは、この最後の頌栄の言葉の根拠として挙げられる歴代志上2910節から13節の御言葉に注目したいと思います。「(10)そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。(11)主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。(12)富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。(13)われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます」。

 

  これは古代イスラエルの王ダビデの祈りですが、ダビデはこの祈り(讃美頌栄)においてひたすらに、ただ神にのみ全ての御力と栄光と讃美とを帰しています。自分はイスラエルの王として油注がれた者であるけれど、それは神に仕え、神の御心に従い、神の御支配を国に実現するミニスターとして立てられたのであって、少しも自分自身の力は無いと語っているわけです。まさにダビデはここで「御国と権威と栄光は限りなく汝のものなればなり」と讃美告白して、自分の持分などは微塵もないと語っているのです。実はここに古代イスラエルの王政の特殊性がありまして、まさにここから、神に仕える人のことをミニスター(Minister)と呼ぶようになりました。つまりミニスターとは「神の僕」のことなのです。

 

 そもそも「国=御国」とは何でしょうか?。私たち改革派教会の信徒たちは教会を自己完結化・自己充足化した群れであるとは考えず、天にある見えざる教会(Invisible Church)を目指して旅路を歩む「旅人の群れ」であると考えます。それと同じように、聖書の中に告げられている地上の国家というものもまた、今は不可視的な永遠なる神の御国(神の永遠の御支配)を目指して歩んでゆくべき共同体であるという理解に私たちは立ちます。つまり神の永遠なる御国を見据える時にのみ地上の国家は相対化され自己完結性を失って、その本質が理性の批判のもとに晒されるものになるのです。これはとても大切なことであって、地上の歴史的な国家というものの本質を考えるとき、主の祈りの「国=神の国」が見据えられているか否かが健全な国家論のための決定的な鍵になるのです。

 

 次に「力=権威」とは何でしょうか?。権威と聞くと、現代人である私たちはあまり良い印象は持ちません。権威主義とか、権威を振りかざすとか、どちらかといえばネガティヴなイメージに傾きがちな言葉だと思います。この言葉に改めて本来的な意味を見出したのはスイス改革派教会の神学者であったカール・バルトです。バルトによれは、旧約聖書にも新約聖書にも「力=権威」という言葉がたくさん出てくるけれども、ネガティヴな意味で用いられているところは一箇所もない。全て私たちの救いと直結した意味でのみ用いられている。そういうことをバルトは「教会教義学」という著書の中でかなり詳しく語っています。

 

なぜなら、聖書が語っている「権威」とは御子イエス・キリストによる救いの権威だからです。それならば、それは十字架の御業と一つである権威なのです。さらに申すなら、主の御降誕、御生涯、十字架の御苦難と死、葬りと復活、昇天と再臨、そうした私たちの救いのための全ての御業が「権威」なのです。

 

 最後に「栄=栄光」について学びましょう。栄光のことをギリシヤ語でドクサ(δόξα) と申します。ですから英語で“Doxology”と言いますとそれは頌栄のことを意味します。LogyとはLogosつまり言葉のことですからDoxologyとは直訳するなら「神の栄光を讃美する言葉」です。そこで、私たち現代のキリスト者はときどきこの“Doxology”を見失っていることはないでしょうか?。むしろ私たち日本人の伝統的な性質のひとつに「徳をもって恩に報いる」というのがあると思います。それなら、主なる神は御子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちに限りない救いの恵みを与えて下さった、その無限の恩に対して私たちは徳をもって報いなければならないのではないでしょうか?。

 

 さの「徳」とは何かと申しますと、私はそれこそ“Doxology”だと思うのです。神の栄光を讃美告白することです。私たちの救いのために十字架におかかり下さり、御自身の生命をさえ捨てて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった神に対して、私たちの生活全体が頌栄的なものになることです。具体的に申しますなら、聖霊によって臨在したもう主イエス・キリストに、教会を通して、礼拝者としてお仕えする僕になることです。

 

 最後に、一つのことだけを申して、9回続いた主の祈りの連続講解説教の締めくくりとしたいと思います。それは、使徒行伝の114節に主イエスの御昇天の後の弟子たちの姿が描かれています。「彼らはみな、婦人たち、とくにイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」とあることです。この「ひたすら祈りをしていた」結果、そこにペンテコステの出来事が起こり、初代エルサレム教会が形成されてゆくのですが、この「祈り」というのは元々のギリシヤ語では定冠詞の付いたτή προσεχήという言葉なのでして、それは主の祈りを表すのです。

 

つまり、初代教会の信徒たちはいつも、ひたすらに、主の祈りを献げ続けていた。主の祈りに生き続けていた。主の祈りを祈り続けていた。そういう姿がここにはっきりと示されているわけでありまして、それを私たちは受け継いでいるのです。まさに私たちは、永遠の御国をめざして、主の祈りを祈り続け、主の祈りに生かされてゆく、旅する主の教会なのであります。祈りましょう。