説     教        歴代志下61821節  ルカ福音書1114

              「悪より救い出したまえ」 ルカ福音書講解〔102

                2022・01・16(説教22031943)

 

 主の祈りの第7番目の祈りは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。主の祈りは2つの讃詠と6つの祈り、そして最後の「アーメン」によって成り立っていますが、今日私たちが共に聞きますのは6つの祈りの中の最後の祈願です。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」これを改めて聴いて、否、今朝も私たちはこれを改めて祈りましたとき、どのように感じたでしょうか?。私たちは日頃この祈りをどのような思いで献げているのでしょうか?。

 

 ここで改めて、と申しますより、ご一緒にきちんと確認しておきたいことがあります。それは、この第7番目の祈りにおいては「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」というように、試みと悪という、普段は私たちがあまり結びつけることがない2つの言葉が並べられていることです。つまり、主の祈りにおいては、私たちが悪に陥るのは試みに屈するからであり、試みに屈することはすなわち悪に陥ることである、と語り告げられているわけです。

 

 そこで、英語で主の祈りを見ますと、実はこの「試み」と訳されている言葉にはTemptationすなわち「誘惑」と訳されるべき言葉が用いられています。たとえば1661年にジョン・ノックスによってイギリス改革派教会で制定された主の祈りの本文では“lead us not into temptation; but deliver us from evil”(我らを誘惑へと陥らせたまわず、却って悪より遠ざけたまえ)と訳されていますし、あるいはまた、現代のイギリスの教会で唱えられている主の祈りを見ますと“Save us from the time of trial and deliver us from evil”(我らを誘惑の時に救いたまえ、そして我らを悪より遠ざけたまえ)という訳になっています。あるいはまた、ドイツのルター派の教会で唱えられている主の祈りを見ますと“Und führe uns nicht in Versuchung, sondern erlöse uns von dem Bösen.”(我らが誘惑に陥らざるよう導きたまえ、かくして我らを悪より救い出したまえ)となっています。

 

これはもちろんギリシヤ語やラテン語の主の祈りでも同様でありまして、「試み」または「誘惑」からの救いは「我らを悪より救い出したまえ」という祈願と一つのものとして祈られているわけです。つまり、我らの主イエス・キリストは、まさにそのような祈りとして「主の祈り」を私たちにお与えになったのです。そこで、私たちがぜひとも心に留めたい御言葉がヤコブ書113節以下に告げられています。「(13)だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。(14)人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。(15)欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(16)愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない」。

 

 ヤコブの手紙が書かれた初代教会の中に、人生において生ずる全てのことをなんでも神の責任にしようとする人たちがいました。その人たちは、これはいささか極論ですけれども「私たちが誘惑を受けて罪を犯すのも神のせいだ」と言っていたのです。そのような人たちに対してヤコブは「この誘惑は神から来たものだと言ってはならない」と教えました。むしろ「(14)人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。(15)欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」のです。どういうことかと申しますと、私たちが誘惑に陥り、死の支配のもとにある原因は、それは自分自身の中にある罪によるのだということです。言い換えるなら、神は私たちに罪を犯させるかたではなく、神は私たちを罪の支配から救って下さるかたである。これが私たちに対するヤコブ書のメッセージです。

 

 マタイ福音書2641節に、主イエスがゲッセマネで祈りを献げておられる間、眠ってしまった弟子たちに対する、主イエスの御言葉が記されています。(41)誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。主イエスはここで愛する弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」とお教えになっておられます。つまり、私たちが誘惑に陥って罪を犯してしまうのは、目を覚まして祈っていないことによるのだと主イエスは語っておられるのです。この「目を覚まして」というのは「信仰に立って」という意味です。それなら、私たちが信仰に立つとはどういうことでしょうか?。それは私たち全ての者の唯一の贖い主であられる主イエス・キリストに自分を投げかけることです。信仰とは、キリストに自分を投げかけることだからです。

 

 言い換えるなら、わたしたちがいつもキリストに自分自身を投げかけているなら、私たちは祈り続ける者とされるのではないでしょうか。祈りもまた、キリストに自分を投げかけることだからです。自分をキリストの御手に明け渡すことです。主の御手に自分を委ねることです。それが「目を覚まして祈り続けること」です。その時、私たちにどういうことが起こるかと申しますと、もはやいかなる誘惑も、私たちを滅びへと引き込む力を失うのです。なぜでしょうか?。主イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪と死を贖い取って下さった救い主だからです。私たちの人生において私たちが直面するどのような誘惑も、もはや私たちを滅ぼすことはできなくなるのです。教会に連なって生きるとはそういうことです。キリストに綱が去って生きるとはそういうことなのです。とても具体的な生きた恵みと守りを戴きつつ、与えられた人生の日々を、主と共に、主の祝福の内を、主の愛に守られて歩み続けることです。ほかならぬ私たち一人びとりがそのような者たちとされているのです。

 

 先ほど、英語とドイツ語の主の祈りの第7の祈願についてお話いたしましたけれども、イタリア語でもとても素晴らしい訳になっているので紹介したいと思います。“e non c'indurre in tentazione, ma liberaci dal male.” (我らが誘惑に陥らぬように導きたまえ、かくして我らを悪から自由にならしめたまえ)。私が特に心惹かれましたのは“ma liberaci”という表現です。これは英語の“deliver”とも違うし、ドイツ語の“erlösen”とも違う、イタリア語に特有な表現だと思います。イタリア語はラテン語の伝統をもっとも色濃く残す言語ですから、ラテン語の主の祈りの“Et ne nos inducas in tentationem; sed libera nos a malo.”をそのまま引き継いでいるのだと思います。

 

 どういうことかと申しますと、私たちが人生において様々な「悪への誘惑」に出会うことは避けられないのです。キリスト者になったから、教会に通っているから、コロナウイルスに感染しないということがないのと同じように、私たちはキリスト者であっても様々な「悪への誘惑」に晒されるのではないでしょうか。しかし、私たちには最強の守り主がおられるのです。それは、私たちのために十字架におかかりになり、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストです。このかたの御手に私たちを委ねるなら、投げかけるなら、その時、私たちはいかなる「罪への誘惑」においても自由な主の僕とされるのです。もし私たちがキリストの御手に自分を明け渡すなら、私たちはもはや罪と死の奴隷であることを辞めて、キリストの僕として、真の自由と平安をもって、人生行路を歩む者たちとならせて戴けるのです。そこに私たちの本当の幸いがあり、慰めと平和と勇気と希望があるのです。祈りましょう。