説     教         詩篇5112節  ルカ福音書1114

              「我らの罪をも赦したまえ」 ルカ福音書講解〔101

                2022・01・09(説教22021942)

 

 主の祈りの第6番目の祈りは「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。実は、私たち人間にとっていちばん難しいのは、他者の罪を赦すことではないかと思うのです。それは観念の遊戯ではありません。単なる言葉の上での事柄ではないのです。そうではなくて、もし私たちに、これだけは(この人だけは)絶対に赦すことはできないと、寝ても覚めても心に堅く思っていることが(人が)あって、その人を「あなたは赦せますか?」と問われたとき、私たちの返事は例外なく「いいえ」なのではないでしょうか。

 

 そのような「赦すことの難しさ」を観念的にだけ扱うなら「キリスト教は赦しの宗教だ」ということがキリスト者の道徳のように叫ばれるのかもしれません。つまり「ならぬ堪忍するが堪忍」ではなくて「他者の罪を赦すことができないあなたは本当のキリスト者ではない」と簡単かつ単純に決めつけてしまう風潮が、教会の中に蔓延するのだとしたら、それは既に「キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会」であることを失っているのだと私は思います。私たちを生かすものはただ福音のみであって、道徳ではないからです。

 

 そこで、実は、私たちは、主の祈りを祈るたびごとに、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」という言葉を無意識的に口ごもってしまう自分を見出すのではないでしょうか?。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」これは一見すると、とても重い祈りのように感じられると思うのです。つまり、口語に直すとこういう意味になるからです「私たちに罪を犯す人たちを、私たちが赦すのと同じように」。そうするとこの第6番目の祈りはこういう意味に捉えられることになります。「私たちに罪を犯す人たちを、私たちが赦すのと同じように、私たちの罪をも赦して下さい」。

 

もしそういう祈りなら、この大6番目の祈りは大変な祈り、というよりも、ほとんど私たちには祈ることが不可能な祈りになります。どういうことかと申しますと「私たちが神によって赦される度合いは、私たちが他者の罪を赦す度合いに応じて変化するのだ」という祈りになるからです。では、本当にこの第6番目の祈りはそのようなものなのでしょうか?。私たちが他者の罪を赦すことが、私たちに与えられる神の赦しを規定するのでしょうか?。神は遥かな高みから私たちを見下ろして「ここまで登って来い、もし登って来れたならあなたは救われる」と語っておられるのでしょうか?。もしもそうだとしたら、それはもはやキリスト教の祈りではなく、ましてや福音でもなく、単なる道徳律になります。そうではないのです。決してそうではないのです。

 

 この祈りを読み解くときに大切なキーワードは「ごとく」という言葉です。その際に、私たちが正しい理解を持つために一つの重要な手掛かりを与えてくれるのがドイツのルター派の教会で祈られている形です。ドイツ語では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」はこういう表現になるのです“Und vergib uns unsere Schuld, wie auch wir vergeben unsern Schuldigern.”ここで日本語の「ごとく」に相当する言葉は“wie”です。これはドイツ語の日常会話でも“Wie geht es Ihnen?(How are you=こんにちは)のように、とても頻繁に用いられる単語の一つで、文法的に申しますなら疑問副詞、関係副詞、従属接続詞、という3つの用法を持つ言葉なのですが、主の祈りの中ではとても大切な意味を持つ従属接続詞として用いられています。

 

 それはどういうことかと申しますよりも、このドイツ語の主の祈りを直訳してみれば明らかになると思います。「私たちに一つの罪を犯す人を、私たちが赦すことができるのだとすれば、それは(神よ)あなたが私たちの数知れぬ罪を赦して下さったからです」。つまり、比較や条件の問題ではないのです。主なる神は御子イエス・キリストの御降誕と御苦難と十字架によって、私たちの底知れぬ、数知れぬ罪を赦して下さった。言い換えるならば、神の御子であられる主イエス・キリストは、私たちの底知れぬ数多くの罪を一身に担って、あの呪いの十字架にかかって死んで下さった。ここに、最も大きな私たち自身の罪が贖われ、赦されて、私たちは何の値もなくして御国の民とならせて戴いているのです。

 

 その、私たちに無償で与えられた罪の赦しと救いの事実がここにある。その罪の赦しと救いの出来事の中に、私たちの全存在が招き入れられている。言い換えるならば、まず私たち自身が底知れぬ多くの罪から贖われ、救われた者たちとしてここに集うている。生かされている。その事実がまず先にあるからこそ、私たちは祈ることができるのです。「私たちに一つの罪を犯す人を、私たちが赦すことができるのだとすれば、それは(神よ)あなたが私たちの数知れぬ罪を赦して下さったからです」と。すなわち、私たちはいつも「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈り続ける幸いを与えられているのです。とぞこれから、この第6番目の祈りを祈るたびに思い起こして下さい。この「ごとく」とは、比較や条件を意味するのではなく、私たちに神が、御子イエス・キリストによって与えて下さった限りない赦しと救いの出来事を指し示しているのだということを。

 

 私に、一つの思い出があります。それは35年前、私が東京の千歳教会の牧師をしていた時のことでした。信徒の一人であった小田部さんというご婦人の娘さんが、当時浦安に住んでいらしたのですが、ある雨の降る日に、赤信号を無視したトラックにひかれて亡くなられたのです。その娘さんの葬儀の日に、そのトラックの運転手も出席していました。そして小田部さんは葬儀の後の遺族挨拶の時に「私は、ゆう子の生命を奪った、あなたの罪を赦します」と語ったのです。途端に、トラックの運転手の人は号泣しました。このとき亡くなったゆう子さんの息子さんは、後に神学校に入り、現在は埼玉県のある教会の牧師として良い働きをしているのです。

 

 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」この祈りに真実に生きることはとても難しいことです。しかし、だからこそ、私たちはいつも心に刻み続けていたいと思う。主イエス・キリストが、最も大きな、恐ろしい、数知れぬ私たちの自身の罪を、あの十字架の御苦難と死によって、贖って下さり、赦しを与えて下さったことを。だからこそ、私たちはこの祈りを、ただ主の赦しの恵みによって、主と共に、祈り続ける幸いを与えられています。ただそこでのみ、私たちがこの第6番目の祈りの言葉を、道徳としてではなく、律法としてでもなく、自由と喜びを与える福音として、聴き続け、祈り続ける僕とされていることを覚え、ともに主の御名を讃美するものです。祈りましょう。