説     教         列王記上1756節  ルカ福音書1114

               「日用の糧を与えたまえ」 ルカ福音書講解〔100

                2022・01・02(説教22011941)

 

 主の祈りの第5番目の祈りは「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。私たちはこの祈りの言葉を、新しき主の年2022年最初の、この主日礼拝において共に学べることを、大きな祝福であると神に感謝するものです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」この祈りの言葉こそ、新しき年の私たちキリスト者の歩みの全てに関わるとても大切なものだからです。

 

 ところで、私たちは「日用の糧」の「日用」という言葉を、いつも本当に正しく理解しているのでしょうか?。これは半分笑い話のようになってしまうのですけれども、たとえば日曜学校の子供たちに「日用の糧」の「日用」ってどんな意味だと思う?と質問をしますと、まあ期待どおりと申しますか「日曜日のこと?」という答えが返って参ります。これは子供たちだけではなく、実は大人の私たちにとっても「日用」という言葉は「日用品」という表現などを除けば、ほとんど疎遠な日本語になってしまっているのではないでしょうか。それは「糧」という言葉についても同じことが言えます。「糧」という表現も現代の日本語においてはほとんど死語になっているのかもしれません。

 

 ちなみに、英語の主の祈りでは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は“Give us this day our daily bread”となっています。あるいはドイツ語では“Unser tägliches Brot gib uns heute”となります。ラテン語でさえ“Panem nostrum quotidianum da nobis hodie”です。つまり、いずれにしても「日用の糧」とは直接的には「日々必要なパン」要するに「私たちが日々必要とする生命のパン」という意味になるわけです。このように、主の祈りの第5番目の祈りは、日本語で見ると難しいのですが、英語やドイツ語やラテン語で読むと、むしろ単純明快な意味の祈りのようにも思えるのです。それは文字通り「私たちに日々必要な生命のパンを、今日もお与えください」という意味になるからです。

 

 しかしながら、それでこの祈りが本当に「よくわかった」と思うことにも、もうひとつの別な危険かあるのではないかと私は思います。それはこの“Our daily bread”“Unser tägliches Brot”“Panem nostrum”を読んて字のごとく「生命維持のために必要なパン=食料」と限定して解釈してしまう危険性です。事実として、いま世界中には約75億人から80億人の人間が生存していると推定されているのですけれども、そのうちの約15億人が慢性的な食糧不足の問題に晒されていると言われています。つまり世界人口の約18%が「日用の糧」に事欠いた状態にあると推定されているわけです。この統計は様々な要素を組合わせることによって変動してくるのですが、そのことを念頭に置いたとしても、約18%という数字は決して小さなものではないと言えるでしょう。

 

 しかし、それならば「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、そのような18%の人々にとっては切実であっても、残りの82%の人々にとっては(それは私たち日本人も含むのですが)少しも切実ではない祈りだ、ということになるのでしょうか?。あるいは、2000年前の主イエスの時代のイスラエルの人々にとっては切実であったかもしれないけれど、21世紀の現代においては18%の人々を除いてはどうでもよい祈りだ、ということになるのでしょうか?。

 

 そうではないと思うのです。そこで私たちは改めて、この主の祈りの原文であるギリシヤ語に注目したいと思います。もともと、主イエスが十二弟子たちに「主の祈り」をお教えになったとき、主はアラム語で彼らにこの祈りをお教えになりました。ギリシヤ語はそのアラム語原文のとても忠実な翻訳です。そこで「我らの日用の糧を」という言葉は、新約聖書のギリシヤ語原文では“τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον”という表現になっています。注目したいのはその中にある「日用の」つまり“ἐπιούσιος”という言葉です。このエピウーシオスには2つの意味がございまして、直接的には「毎日の」という意味なのですが、もう一つの、それこそアラム語の主の祈りに対応する意味として「最も大切な=不可欠な」という意味があるのです。

 

 我らの主イエス・キリストは、まさに愛する弟子たちに「私たちにとって最も大切な(=不可欠な)生命の糧を、今日も我らに与えたまえ」と祈るようにお教えになったのではないでしょうか。それはなにかと申しますと、私たち全ての者に救いと永遠の生命を与える生命の御言葉、すなわち生ける神の御言葉そのものです。それこそ、世界の18%の人々にも82%の人々にも等しく不可欠な生命の糧であり、私たちがこの新しい主の年2022年を迎えるにあたって、切実かつ熱心に、そして絶えず、祈り求め続けなければならないものなのです。

 

 ここで敢えて一つの問いを皆さんに投げかけたいと思う。皆さんは日々聖書の御言葉に親しんでおられるでしょうか?。聖書の言葉、生ける神の御言葉を、毎日の「最も大切な生命の糧」として戴く毎日を過ごしているでしょうか?。もしそうでなかったのでしたら、どうかこの新しい主の年2022年の初めにあたって、主の祈りに改めて立ち帰って戴きたいと思うのです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。これこそ、私たちにとって最も大切な祈りではないでしょうか。否、なによりもこの祈りこそ、主イエス御自身が私たち一人びとりに「かく祈れ=あなたは日々このように祈り続けなさい」と求めておられるものではないでしょうか。その主イエスのお求めに、私たちは心新たにお従いしたいと思うのです。

 

 もう天に召されて20年にもなる、かつて大阪の森小路教会の牧師であられた永井修先生が、ある年の修養会で語られたことを、私は思い起こしています。永井先生はこう言われました。「これは難しい話でもなければ理屈でもない、聖書の御言葉に日々親しまないキリスト者の生活は、やがて信仰の枯渇という結果を迎えるほかはないのだ」。私は、それは本当のことだと思います。難しい話でも、理屈でもないのです。聖書の御言葉に日々親しむこと、つまり「最も大切な(=不可欠な)生命の糧を日々主の御手から戴くこと、このことに熱心でないキリスト者の生活は、やがて枯渇してしまうのです。

 

 私たちはどうでしょうか?。私たちは、そのような枯渇する信仰のキリスト者であってはならないと思います。なぜなら、私たちには日々、主がお教え下さったこの祈りがあるからです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。どうか新しい主の年2022年を、この祈りと共に歩んで参りたい。そして、生き生きとしてキリスト告白に絶えず生き続ける教会、救いの喜びをいつも世に証し続ける教会、十字架と復活の主イエス・キリストのみを仰ぎ続ける教会として、このピスガの丘に、キリストの御身体なる真の教会を、祈りを熱くして、ともに形造って参りたいと思います。祈りましょう。