説    教         イザヤ書96節  ヨハネ福音書114

             「人となりたる神」 クリスマス礼拝

             2020・12・20(説教20511887)

 

(9:6)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」。今日はクリスマス礼拝です。この日に私たちはこのイザヤ書96節の御言葉を与えられました。ここに「ひとりのみどりご」とありますのがベツレヘムの馬小屋にお生まれになった御子イエス・キリストをさしているのは申すまでもありません。しかし改めてこれを心に留めるなら、これはとても不思議な御言葉ではないでしょうか。

 

 私たちは意識するにせよせざるにせよ、神が神であることの条件は永遠性にあると考えています。間違ってはいません。言い換えるなら、神は死なないからこそ神なのだということです。死なないということは、私たちのような肉体的存在ではないということです。肉体的存在は、やがては病み、衰え、ついには死ぬしかないからです。そのようなものを誰も「神」とは呼びません。つまり「神」は死なないからこそ神なのです。この神が「ひとりのみどりご」としてお生まれになったということは、言い替えるなら、神が神でないものになられたということです。実はこの事実こそ、クリスマスの福音の本質なのです。

 

 併せて拝読したヨハネ伝114節にはどのように記されているでしょうか?。「(14) そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。御子イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋の中でお生まれになりました。永遠なる神が、私たちと同じ肉体をお取りになって、歴史のただ中に肉体的存在としてお生まれになったのです。それは「わたしたちのうちに宿る」ためでした。この「宿る」とは私たちの救いのために十字架への道を歩んで下さったキリストの歩みの全体をさしています。

 

 つまり、こういうことです。クリスマスの出来事は、永遠なる真の神が、私たちの罪を贖い、この世界と歴史全体を救うために、世界で最も低く、暗く、貧しく、寒いところ、まさに「余地なきところ」にお生まれ下さったといういう事実です。すなわち、罪によって神に叛き、神の外に出てしまった私たちを救うために、神みずからが神の外に出て下さった、神ではないものになって下さった、肉体的存在として私たちの「うちに宿られた」。まさしく「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた」という事実。それがクリスマスの出来事の本質なのです。

 

 私は、約30年前のことですが、イスラエルのベツレヘムを訪ねたことがあります。そこには主の御降誕を記念した教会「聖誕教会」がございまして、それは主イエスがお生まれになった馬小屋の跡に建てられたものだと伝えられているのです。意外なことに主イエスがお生まれになった場所というのはその教会の地下にありました。そこには地面の大理石に直径30センチほどの丸い穴が穿たれていて、その周囲にはたくさんのロウソクが灯されていました。私はそんなことには感動しません。私が感動したのはそこにラテン語で今朝のヨハネ伝114節が刻まれていたことです。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。

 

 私は改めてラテン語でこの御言葉を読みまして、打ちのめされたような感動を覚えました。ラテン語ではこう書くのです。“et Verbum caro factum est et habitavit in nobis”特にここに事実をあらわす“factum”という言葉が出てきます。だから直訳するとこうなります。「そして言葉は肉体という事実となり、私たちのただ中に住まわれた」。つまり、ここに明確に告げ示されていることは、御子イエス・キリストがお生まれになったという事実(Factum)の意味なのです。それは、罪によって神の外に出てしまった私たち、神との生きた関係を失ってしまった私たち、救いの余地の無い私たち、そのような私たちを救うために、永遠なる神の独子が肉体という事実となられて、私たちのただ中にお住まいになった。それがクリスマスの出来事の意味なのです。

 

 救いの余地の無い私たちを救うために、永遠なる神の御子が「余地なきところ」に事実としてお生まれになったのです。そして、十字架への道を歩んで下さったのです。だから私たちは今日のこのクリスマス礼拝において、心から「クリスマスおめでとう」と祝福の挨拶を交わします。それは言い換えるならこのような祝福です。「クリスマスおめでとう。まことにキリストは、あなたの救いのために事実としてお生まれになりました」。私たち全ての者にとって、これにまさる祝福、これ以上の救いの喜びはないのです。祈りましょう。