説    教         イザヤ書714節  ルカ福音書63942

             「さらば明かに見えて」 ルカ福音書 (49)

             2020・12・13(説教20501886)

 

 今朝の旧約聖書・イザヤ書714節にこのように告げられていました。「(14)それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。私たちは今日、待降節(アドヴェント)第三主日を迎えるにあたりまして、この御言葉を深く心に留めざるをえません。なによりもここには、御降誕の主イエス・キリストの御名として「インマヌエル」という言葉が出てきます。これはマタイ伝123節に告げられているように「神われらと共にいます」という意味です。

 

 「神われらと共にいます」。私たちの人生にとって、この事実ほど大切なものはありえないのではないでしょうか。しかも、この最も大切なことが最も蔑ろにされているのが私たち人間の偽らざる姿なのです。なによりも、聖書において示されている私たちの姿は、罪によって神から遠く離れ、神に対して背を向けて、神に反逆して歩んでいる「反逆者」の姿なのではないでしょうか。その反逆者でしかありえなかった私たちを「神われらと共にいます」幸いに生きる者として下さるために、御子イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋の中に、つまりこの世界で最も低く、暗く、寒く、貧しいところ「余地なところ」にお生まれ下さった救い主なのです。

 

 このことを共に心に留めつつ、私たちは今朝のルカ伝639節以下を改めてお読みしたいと思います。「(39)イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。(40)弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。(41)なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。(42)自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」。

 

 この比較的長い御言葉が私たちに語っていることは実はとても単純な事実です。「あなたのまなざしを明らかにしなさい」ということです。特に42節の御言葉が大切です。「(42)自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」。この「そうすれば、はっきりと見えるようになって」とあるところは文語訳の聖書では「さらば明かに見えて」となります。この「明かに」とはただ単に「視力が良くなる」とか「はっきりと見えるようにな」という意味の言葉ではありません。むしろ「最も大切なことが何であるかがわかるようになる」という意味の言葉です。

 

 同じ新約聖書のマタイ伝1344節に,主イエスがお語りになったひとつの譬え話があります。「(44)天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」。ある小作農が借りた畑を耕していたのです。この人は小作人ですから畑は自分の持ち物ではありません。たぶん石ころだらけの耕しにくい畑でした。とにかく彼が一生懸命に鍬で畑を耕しておりますと、鍬の先に何か堅いものがカチンと当たりました。また石ころかと思ってそれを取り除こうとしましたら、それはなんと見たこともないような美しい大きな宝石であった。たぶん大昔に誰かがそこに隠して埋めた貴重な宝石が出てきたのです。

 

 そこでこの小作農はどうしたかと言いますと、そ知らぬ風を装ってその宝石を元の場所に埋めて、そして急いで家に帰りまして、家も家具も什器備品類も全てを売ってお金に換え、それでも足りないぶんは方々に借金までして、その畑を買ったというのです。もちろん目的はその宝石を手に入れるためでした。何も知らない周囲の人たちは「どうしてあんな石ころだらけの畑なんか買うのだ」と嘲笑ったわけですが、彼はそこに素晴らしい宝物があることを知っていましたから、どんな犠牲を払ってでもその畑を買って、見つけた宝物を自分のものにしたのです。

 

 大切なことは、この譬え話は「天国の譬え」であると主イエスご自身がが語っておられることです。この畑とは私たちの人生のことであり、そしてそこで発見した宝とは「神われらと共にいます」幸い、すなわちインマヌエルの事実です。そこでこそ主イエスは私たちに言われるのです。もしもあなたが自分の人生という畑の中でインマヌエル(神われらと共にいます)という無上の宝物を見つけたならば、その畑はもはやあなたにとってただの畑ではなくなるのだ。つまり、あなたはあなたの人生が天国の喜びに直結したものであることを知るであろう。どんな犠牲を払ってでもそれを自分のもにしようと願うであろう。そのように主は言われるのです。

 

 これはどういうことかと申しますと、もし私たちが人生の中で「インマヌエル」という宝物を見出さないのなら、その宝物に出会わないのなら、私たちの人生は終わりまで虚しい借物の畑にすぎないのだということです。逆に言うなら、主なる神は私たちの人生のただ中にインマヌエルの恵みを与えていて下さるのです。そして、その宝物を私たちが見つけることができるように導いておられるのです。そこでこそ、あなたのまなざしを明らかなものにしなさいと語っておられるのです。

 

私たちはいったいどこで、自分のまなざしを明らかにすることができるのでしょうか?。それは聖霊なる神の導きによるのです。信仰によるのです。御降誕の主イエス・キリストを信じる信仰です。あの老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いたとき、彼は感謝して主を讃美して言いました。「主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから」(ルカ伝2:29,30)。私たちはどうか心に留めましょう。シメオンの讃美告白に先立って、まず幼子主イエスがベツレヘムの馬小屋の中に降誕されたのです。主なる神の絶大な救いの恵みが先なのです。私たちの讃美告白はその後です。主なる神は「余地の無いところ」に独子イエスを与えたもうたのです。私たちの、そして全世界の人々の救いのために。

 

 だからこそ、このクリスマスの恵みにおいてこそ、私たちの目は明らかなものにならせて戴けるのです。私たちもまた、この人生という畑の中で、御降誕の主イエス・キリストという絶大な宝物を見出させて戴いたのです。この幼子イエスを信仰をもって迎えるとき、私たちの人生全体が限りない祝福と幸いに変えられるのです。「主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせて下さいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから」。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは『神われらと共にいます』という意味である」(マタイ伝1:23)。私たちは来週の日曜日、共にクリスマスの主日を迎えます。御降誕の主を信仰によってお迎えすることによって、私たちのまなざしを明らかなものにして戴きましょう。祈りましょう。