説    教        ヨブ記3314節  ルカ福音書63738

            「キリストの人格」 ルカ福音書 (48)

             2020・12・06(説教20491885)

 

 「(37)人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。(38)与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

 

 現代という時代は「審きの時代」なのではないかと感じさせられることがあります。人間の心の中に物事を正しく見て判断するための余裕のようなものが無くなってきているのではないでしょうか。だから、他人と少しでも意見が食い違ったり、あるいは自分の経験上の尺度に合わないことを見聞きしますと、驚くほど激しい拒絶反応が現れることが多くなっているような気がするのです。特に新型コロナウイルスの影響によってますます「審きの時代」に拍車がかかっているのではないでしょうか。

 

 まさにそのような現代においてこそ、私たちの主イエス・キリストは今朝の御言葉において、はっきりと私たちにお語りになります。「(37)人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう」。ここで特に私たちが思い起こすのは「主の祈り」の中の一節です。「われらに罪をおかす者を我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。私たちは日々この祈りと共に生活しています。つい先ほどもこの祈りを献げました。

 

 そこでこそ、私たち全ての者に主は問うておられるのです。「あなたは毎日本当に真実にこの祈りに生きているのか?」と。むしろ人を審き、人を呪い、人を退けて生きている私たちの姿がありはしないだろうか。私たちは改めて深く今朝の御言葉を受け止めなくてはならないと思うのです。主の御声を正しく聴く者とならねばならないと思うのです。

 

 そこで、もしも主イエスの今朝のルカ伝637節が、単なる道徳の教えだとしたなら、私たちには絶望しかありえないのではないでしょうか。私は「私は誰も審いたことがありません=私は人生において一度も人を審いたことがありません」と公言した人を知っています。しかしその人は実際には審きの塊のような人でした。人を審かなければ生きていけないような人でした。しかしその矛盾した姿こそ、振り返ってみるなら、多かれ少なかれ私たち自身の罪の姿なのではないでしょうか。私たちこそ、人を簡単に審いておきながら、しかも「私は誰も審いたことがありません」と公言して憚らない、そのような罪を犯し続けているのではないでしょうか。

 

 今日のこの待降節第2主日礼拝にあたり、私たちは改めて「キリストの人格」に心を向けたいと思います。なぜでしょうか。それは今朝のこのルカ伝の御言葉にこそ「キリストの人格」が鮮やかに宣べ伝えられているからです。それは、私たち人間の審きによって十字架にかけられつつも、その十字架の上から私たちの底知れぬ罪を赦し、私たちの罪を贖って、私たちを御国の民として下さったキリストの人格です。この「人格」という言葉は英語で申しますと“Person”ドイツ語なら“Persoenlichkeit”です。決して単なる「性格」という意味ではありません。

 

 言い換えるならこういうことです。主イエス・キリストは永遠なる神の独子でありたもうにもかかわらず、あの最初のクリスマスの晩において、ベツレヘムの馬小屋にお生まれ下さった救い主であられるのです。永遠なる真の神が真に人となられたのです。これを「キリストの人格」と呼ぶのです。

 

 今朝、あわせてお読みした旧約聖書・ヨブ記3314節にこのようにございました。「(14)神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ」。この御言葉は、主なる神が御自身を私たちに啓示したもう方法は常に1つだとは限らず、それはしばしば2つあるのだということが語られています。そしてここで言われている「悟り」とは人間の理性的認識能力のことですが、それによっては神は理解できないのだと語られているわけです。

 

 では神を知るために何が私たちに求められているかと申しますと、それは信仰に基づく正しい理性です。これをラテン語では“Sophia”と言います。日本語では「英知」と訳されます。つまりこういうことです、私たちが「キリストの人格」を知るために必要なのは信仰による英知(Sophia)なのです。それは主なる神のみがお持ちになっておられて、それを聖霊によって信ずる者すべてに与えて下さるのです。言い換えるならば英知とは信仰のことです。さらに言うならば信仰に基づく新しい生活のことです。

 

 それはどういう生活でしょうか?。ここでも私たちは道徳律から自由な者とされていることを喜びましょう。それは「常にキリストに固着する者の生活」です。その新しさは私たちが持つ新しさではなく、キリストが御自身の人格を通して私たちに与えて下さる本当の新しさです。言い換えるなら、私たちがいつでも、どこにいても、主が私たちをかき抱くようにしてご自分の「かけがえのない愛する子」としていて下さることです。主がいつも私たちを捕えていて下さることです。主が「あなたは私のかけがえのない大切な子である」と宣言していて下さることです。

 

 この「キリストの人格」に私たちの心を向けるとき、私たちは続く38節の意味を正しく知ることができるでしょう。「(38)与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。これは主がご自身の十字架の恵みを通して私たち全ての者に約束していて下さっている人生の祝福です。本当に豊かな、審きから解放された人生の豊かさがここに約束されているのです。

 

 それと同時に、私たちはこのことを知らずにはおれません。主がこの38節で語っておられる祝福の背景には、あの恐ろしいゴルゴタの十字架が屹立しているのです。私たち人間の罪による審きの罪と、その罪を贖って下さために御自身の全てを犠牲にして下さった主イエス・キリストの恵みを私たちは見る者とされているのです。パスカルが語っているように「私たちは十字架において自分自身の罪と同時にその完全な永遠の救いを見る」のです。

 

 主イエス・キリストは「(38)人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」と言われました。それならば、私たちは主イエスに対して何をお返ししたのでしょうか?。それこそ冷たい審きであり、呪いであり、憎しみであり、排斥であり、十字架でした。それを主は全て黙って身に負うて下さいました。私たちをその恐ろしい罪から救うためです。神の御前に立ちえざる私たちを御国の民として下さるためです。そこでこそ、私たちは主イエス・キリストによって、聖霊によって、人生の大きな祝福と幸いを約束されているのです。

 

 「(38)与えよ、そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。