説    教        イザヤ書118節   ルカ福音書631

             「黄金律」 ルカ福音書講解 (46)

             2020・11・22(説教20471883)

 

 先ほど拝読したイザヤ書118節には、このように告げられていました。「(18) 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。ここに宣べ伝えられていることは、私たちの人生と存在の全体を救う驚くべき喜びの音信です。私たちの罪がたとえどんなに激しく私たちの存在を脅かし、滅びに引き込もうとしても、主イエス・キリストがあなたの人生と存在の全体を贖い、永遠の御国へと導いて下さるならば、あなたは救われる。たとえあなたの罪が緋のように赤くても「雪のように白くなるのだ」。そのように預言者イザヤは宣べ伝えているのです。

 

それならば、ここで私たちに求められていることは、贖い主であられる十字架の主イエス・キリストに対する明確な信仰告白です。言い換えるなら、私たちの旗を常に鮮明に掲げることです。さらに言うなら、罪の旗印のもとを離れて、十字架の主イエス・キリストの旗印のもとに馳せ参じることです。主は言われました「汝らは二人の主人に兼ね仕えることあたわじ」と。もし私たちが十字架の主イエス・キリストを信じて生きるなら、私たちはもはや罪の旗印のもとにいるのではなく、永遠に変わらない主イエス・キリストの救いの旗印のもとに立ち続ける僕とされているのです。

 

 私たちの主イエス・キリストは、私たち全ての者を、まさにそのような「十字架の主によって贖われた私たち」として、永遠の御国の世継ぎとして下さいました。主は私たちに「あなたは私の旗印のもとに永遠に立ち続けるかけがえのない人だ」とはっきりと宣言していて下さるのです。そして私たちに日々驚くべき新しい人生の歩みを与えて下さいます。昔からの諺に「勇将のもと弱卒なし」というものがあります。罪と死に対して永遠に決定的に勝利して下さった主イエス・キリストの勝利の御旗のもとに連なる私たちはもはや「弱卒」ではありえないのです。キリスト教の本質、聖書が語る福音の本質は「私はブドウの木、あなたがたはその枝である。いつも私に繋がっていなさい」(ヨハネ伝151節以下)に尽きます。

 

 つまり、私たちキリスト者にとって最も大切な生活の指針は「いつも、どこにいても、勝利者なる十字架の主イエス・キリストにしっかりと繋がっていること」です。そのような私たちに主が与えて下さった新しい人生の指針、黄金律が今朝のルカ伝631節に示されています。「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。これは何という大胆な言葉であり、驚くべき御教えでしょうか。かつて西暦1世紀後半、ラビ・アキバ・ベン・ヨセフというユダヤ教の卓越した指導者(律法学者)がいました。この人の律法解釈(ミシュナー)は今日に至るまでユダヤ教全体に大きな影響を与え続けています。このベン・アキバがある人から意地の悪い質問を受けました「律法の本質をたった一言で私に教えてくれ。そうすれば私は律法を学んでやる」と言われた。ラビ・アキバはたった一言で答えました「人の嫌がることをするな。それが律法の本質の全てだ」あとはその解釈に過ぎない。さあ、約束どおり律法を学びなさい。

 

 このラビ・アキバの言葉は律法の本質を的確に現していると言えるでしょう。「人の嫌がることをするな」。ある意味でこれは、ユダヤ教でなくても、たとえば私たち日本人にとって、仏教や神道の教えにも通じるものがあると思うのです。特に日本人は人間関係において「出過ぎた真似をしないこと」を大事にします。押しつけがましいこと(親切が仇になること)を嫌います。だから「人の嫌がることをするな」という教えには心の底から同意できるのです。その通りだ、人の嫌がることをしてはいけない。人のふり見てわが身を直せだ。自分がされて嫌なことを他人にしてはいけない。そういう教え、そういう価値観、いわば消極的道徳律は、私たち日本人の生活の隅々にまで染み付いていると言って良いでしょう。

 

 だからこそ、私たちは今朝のルカ伝631節の御言葉に素直に頷けない部分があるのではないでしょうか。「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。そのとおりだと思いつつも、心のどこかで引っかかるものを感じるのが大多数の日本人だと思うのです。「どうもこの言葉には押しつけがましさを感じる」「自分が望むことは他人も望んでいると考えること自体が傲慢ではないのか」そのような反応が返ってきたとしても不思議ではないと思います。そのような意味ではラビ・アキバの言葉のほうが一般受けがするのです。少なくとも反感を感じないでも済むと思うのです。

 

 では、なぜ主イエスは今朝の631節の御言葉を私たちにお語りになったのでしょうか?。「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。これは昔から聖書の中の「黄金律」(The Golden Rule)と呼ばれてきました。ユダヤ教の律法の本質がラビ・アキバの言葉なら、ルカ伝631節は福音に基づく新しい生活の本質「黄金律」だという意味です。そして、それはただ単に「押しつけがましくない道徳律と「押しつけがましい道徳律」の違いということではないと思います。そういうことではないのです。私たちは何よりも、この御言葉の主語が十字架の主イエス・キリストにあることを忘れてはなりません。

 

 使徒行伝の第3章に、エルサレムの「美しの門」の傍らで現わされたペテロとヨハネによる奇跡の出来事が記されています。ある日ペテロとヨハネが午後3時の祈りのためにエルサレム神殿の「美しの門」を通ろうとしたところ、そこで生まれながら足の不自由な物乞いの男に出会いました。この人がペテロとヨハネを見て施しを乞いました。ペテロとヨハネは「私たちを見なさい」と言いました。3人のまなざしが交差しました。するとペテロが彼にこう言ったのです。「金銀は私にはない。しかし私が持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち、歩きなさい」(使徒行伝3:6)。そして彼の右手を取って立ち上がらせますと、生まれつき歩くことができなかった彼の足がたちまち癒され、力を与えられて、躍り上がるようにして立ちあがり、歩き出したのです。そして神を讃美しつつペテロとヨハネと一緒に神殿の境内に入って行きました。神を讃美し、礼拝を献げる人に変えられたのです。

 

 私たちはこの奇跡の出来事においてこそ、今朝のルカ伝631節を正しく理解することができます。ペテロは「私に金銀はない」と言いました。たとえ金銀を持っていたとしても、それを与えただけなら神の奇跡はそこには起こらず、物乞いの男もキリストを信じるには至らなかったでしょう。しかしペテロとヨハネはこの世の宝に遥かにまさる宝を持っていました。それは「主イエス・キリストの御名」です。そのイエス・キリストの御名によって、彼を立ち上がらせたのです。そこに奇跡が起こったのです。

 

 その時の彼の喜びは、どのようなものだったでしょうか。非常に大きな喜びをもって、立ちえなかった彼はが立ちあがり、躍り上がって喜び、主なる神を讃美し、そのまま神殿に入って行って、ペテロやヨハネとともに礼拝を献げたのです。つまり、彼は神による真の救いを受けたのです。神の愛を知る者とされたのです。御国の民とされたのです。それこそ、彼が本当に求めていたものでした。いや、全ての人が本当に欲しがっていたものでした。今朝のルカ伝631節の言葉で言うなら「人々にしてほしいと、あなたがたの望むこと」でした。それは真の救いです。キリストによって罪が贖われて、神の御国の民とならせて戴くことです。そこにこそ、この人の、いや、私たち全ての者の「してほしいと望むこと」があるのです。それを主はご自身の生命を献げてまでも与えて下さるのです。

 

ルカ伝1232節を共に心に留めて終わりましょう。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父の御心なのである」。祈りましょう。