説    教      申命記151011節  ルカ福音書62730

            「キリストの歩まれし道」 ルカ福音書講解 (45)

             2020・11・15(説教20461882)

 

 今朝私たちに与えられたルカ伝627節以下をもういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(27)しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。(28)呪う者を祝福し、辱める者のために祈れ。(29)あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。(30)あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな」。

 

 私たちは今朝のこの御言葉を一読して、どのような印象を抱くでしょうか?。いや、それよりも、ふだん私たちはどのようこの御言葉を読んでいるのでしょうか?。ここにはある意味で非常に厳しい倫理的な要求が書かれています。「(27)敵を愛し、憎む者に親切にせよ。(28)呪う者を祝福し、辱める者のために祈れ」。例えば、冒頭のこの言葉からして、もう既に私たちの日常生活からはかけ離れた、非常に厳しい倫理的要求であると言わざるをえません。改めて問わざるを得ないのです。いったい私たちの内の誰が「敵を愛し、憎む者に親切に」しているのか?。いったい私たちの中の誰が「呪う者を祝福し、辱める者のために祈」っているのでしょうか?。

 

 しかも、今朝の御言葉はそれだけで終わっていません。続く29節と30節にはこうございます。「(29)あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。(30)あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな」。要するにこれは「無抵抗の人生に徹しなさい」という厳しい教えなのでしょうか?。やられっぱなしの人生、損をし続ける人生、無抵抗の人生、与えっぱなしの人生を歩みなさい、という教えなのでしょうか?。もしそうだとしたら、私たちは嘆息せざるをえません。「主よ、それは私には無理です」と言うほかない私たちなのではないでしょうか。

 

 だからこそ、私たちはここで大きく視点を変える必要があります。もし私たちを中心にして今朝の御言葉を聴くなら、つまり、私たちを主語にして今朝の御言葉を読むなら、それは途轍もなく厳しい倫理的要求として私たちの人生に立ち塞がるのです。私たちはそこで身動きが取れなくなるのです。絶望するしかないのです。しかし、私たちがここで大きく視点を変えて、主イエス・キリストを主語にして今朝の御言葉を聴くとき、それは全く違った聴こえかたがしてくるのではないでしょうか。すなわち、私たちの人生に立ち塞がる厳しい倫理的要求としてではなく、私たちを解き放ち、自由を与え、希望と勇気を与える福音の真理として、私たちはこれを聴くことになるのではないでしょうか。

 

 いま私たちはしっかりと確認しなくてはなりません。今朝の御言葉の主語は私たちではなく、主イエス・キリスト御自身であるということを。言い換えるなら、主は私たちに、ご自身が歩まれた道として今朝の御言葉を語っておられるのです。これをあなたの心に留めなさいと語っておられるのです。

 

 話は変わりますが、私のキリスト者としての人生に決定的な影響を与えて下さった牧師先生は森下徹造という先生です。私が森下先生のもとで教会生活をしたのは16歳から18歳にかけての僅か2年間でした。しかしそれは決定的な2年間でした。森下先生が天に召されたのは今から28年前の1997828日のことでした。当時東京の教会の牧師であった私はもちろん、群馬県の前橋教会で行われた森下先生の葬儀に出席しました。森下先生を私と同様に心から尊敬なさっていたハーバート・ベーケン宣教師(Revd.Herbert Beeken)が説教をなさいました。その中でベーケン先生が語られた言葉を私は生涯忘れえないでしょう。「森下徹造先生の生涯そのものが、私たちに対する先生のメッセージです」。この部分をベーケン先生は英語でこう繰り返されました。“His life itself is his message to us

 

 それは、どういうことなのでしょうか?。私自身の経験に基づいて申しますなら、私は高校2年生の春に森下徹造先生に出会ったことでキリストへと導かれました。その森下先生は新島襄の弟子であった海老名弾正との出会いによってキリストへと導かれました。そして海老名弾正は新島襄との出会いによって導かれ、新島襄はアメリカのボストンのハーディー夫妻(Mr. and Mrs.Hardy)との出会いによってキリストへと導かれました。このような出会いをずっと遡って行くなら、私たちはそこに必ずキリストを見出すのです。さらに申しますなら、私たちはキリストへと導かれたどの出会いにおいても、そこに「キリストの歩まれし道」を見出すのです。

 

 「彼の人生そのものが、私たちに対する彼のメッセージである」“His life itself is his message to us”ベーケン先生が語られたこの言葉の「彼」とは、すなわちキリストに繋がる「彼」です。もしこれを大文字の“Hにすればそれはキリストご自身を意味することになります。つまり、私たちをキリストへと導いてくれた「雲の如き証人たち」(ヘブル書12:1)は全て、私たちをキリストへと導くために「キリストの歩まれし道」をさし示してくれた人々です。私は伝道とはそういうことだと思っています。それ以外の伝道はあり得ないとさえ思っています。その意味で教会はとてもアナログな群れなのです。現在はCOVIDの影響でインターネットによる礼拝や会議などが余儀なくされていますが、教会は本質的にアナログな群れであることを忘れてはならないと思います。

 

 私たちは改めて今朝の御言葉を心に留めましょう。(27)しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。(28)呪う者を祝福し、辱める者のために祈れ。(29)あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。(30)あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな」。改めて申します、主はここで私たちに厳しい倫理的要求を突き付けておられるのではない。そうではなく、ここの主語は主イエスご自身です。それならば、ここに語られている全てのことは、私たちの救いのために主イエス・キリストが歩みたもうた道そのものなのです。まさに「キリストの歩まれし道」がここにさし示されているのです。

 

 そればかりではありません。私たちは今朝の御言葉の中に、実は自分自身の姿をも見出すのです。どこにでしょうか?。それは「敵」「憎む者」「呪う者」「頬を打つ者」「上着を奪い去ろうとする者」「求める者」「持ち物を奪う者」です。それこそ、キリストと隣人対する私たちの姿なのではないでしょうか。それならば、主イエス・キリストは、そのような罪人である私たちを赦し、救いを与え、御国の民として下さるために、今朝の御言葉に示されている道を、十字架への道を、歩んで下さったかたなのです。

 

 繰り返して申します。今朝の御言葉は私たちを主語とした倫理的要求ではありません。そうではなく、十字架の主イエス・キリストのみを主語とした「キリストの歩まれし道」を私たちにさし示すものです。そのような御言葉として、まさに福音そのものとして、今朝の御言葉は私たち一人びとりに宣べ伝えられているのです。主イエスご自身が私たちに「私はあなたのためにこの道を歩んだのだ。だからあなたはどのようなことがあっても大丈夫。いつも私に繋がっていなさい」と語り告げていて下さるのです。主ご自身が、御自身の歩まれた道そのものを通して、私たち全ての者たちに、確かな救いを与えて下さるのです。私たち一人びとりが、そのような「キリストの歩まれし道」をさし示す主の証人として歩ませて戴けるのです。祈りましょう。