説    教      箴言141213節   ルカ福音書62426

            「カテキズム的教会」 ルカ福音書講解 (44)

             2020・11・08(説教20451881)

 

 今朝のルカ伝624節以下の御言葉をもういちど口語訳でお読みしたいと思います。「(24)しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。(25)あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。(26)人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである」。

 

 主イエス・キリストは前の623節までのところで「預言者たち(殉教者たち)の幸い」について私たちにお語りになりました。今日の24節以下では逆に「預言者たち(殉教者たち)ではない者たちの「わざわい」についてお語りになるのです。この場合、まず私たちが確認しておかなければならないことは、この「預言者」という言葉は「主の御身体なる教会に連なる人々」のことをさしているのだという事実です。言い換えるならば、私たちは誰でも「主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会」に連なって礼拝者として生きるとき「預言者たち(殉教者たち)の幸い」に連なる者たちとされるのだということです。

 

 だからこそ、主はその逆のことについても、私たちに御教えを与えたもうのです。それはひと言で申しますなら「教会の外に真の幸いはない」ということです。これは不遜な言いかたではなく、社会を蔑視しているのでもありません。そうではなくて、キリストに連なるということは、キリストがお建てになったキリストの御身体なる教会に連なることなのです。だから、教会生活を軽視することはキリストの御身体を軽視することなのです。そこに真の幸いは無いのは当然のことなのです。ところが、この当然のことが私たちにはなかなかわからないし、また、わかりづらいのではないでしょうか。

 

 私は葉山教会に赴任させて戴いて、自分でも驚いておりますが早くも26年が経ちました。四半世紀以上の年月を皆さんと共に過ごさせて戴いたことになります。はたして私が葉山教会の牧師として適任の牧師であったどうか、いささか心もとないところがあります。正直忸怩たる思いがするのですけれども、しかし主の御赦しと憐れみにおいて、この26年間を一意専心に牧会伝道に努めて参りました。26年前、私が葉山教会に赴任いたしましたとき、長老会で所信表明をいたしました。はっきりと覚えております。私は「葉山教会を教理的な教会として形成してゆきたい」ということを申し上げたのです。それと併せて、もう一つのことを申しました。「だから教勢の進展は期待しないで戴きたい」。

 

 この、私のもう一つの所信表明が一部の長老に物議をかもしました。それは困ると言われました。しかし私が語った言葉の意味は「キリストではなく人間に繋がった人たちが集まる教会にしたくない」ということでした。つまり「教理的な教会」とは「教会の唯一のかしらなるキリストのみにしっかりと連なる教会」という意味です。言い換えるなら、葉山教会を「キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的教会」として形成してゆきたいという所信でした。それは今日に至るまで少しも変わっていません。いえ、これが変わったらいけないと私は思っています。教勢は時代によってふえることもあれば減ることもあります。しかし教会を「キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的教会」として形成してゆきたいという願いは、いつの時代にも決して変わってはならないものなのです。

 

 そのような願いに基づいて、私が赴任して早々に行ったひとつの試みは、ハイデルベルク信仰問答に基づく講解説教を行ったことでした。皆さんは覚えておられるでしょうか?。それと同時に礼拝後に「教理を学ぶ会」を設けまして、そこでもハイデルベルク信仰問答を(のちにはウェストミンスター信仰告白やルターの小教理問答、さらにはジュネーヴ教会信仰告白やスコットランド信条を)丁寧に解き明かしました。私は当時そこに出席しておられて、今は天に召された多くの兄弟姉妹たちのことを思い起こします。あるとき「教理を学ぶ会」でこういう学びをしました。「信仰問答と訳されたカテキズムという言葉は元々ギリシヤ語で「鳴り響く」という意味のカテクーメンという言葉に由来している」。

 

 この「鳴り響く=カテキズム」という言葉はもちろん「神の言葉が鳴り響く」という意味です。「福音が鳴り響く」という意味です。もし私たちの葉山教会を楽器に譬えるならば、それを演奏したもうのは主イエス・キリストでなければならないのです。それを誰か人間が勝手に演奏してはいけないのです。わかりやすく申しますと説教壇から語られる説教の言葉は神の御言葉のみの解き明かしでなければならない。福音が鳴り響く説教でなければならないのです。今日の説教の題を「カテキズム的教会」といたしましたが、そのことの意味がご理解いただけたのではないかと思います。

 

私たちの教会はまさに「カテキズム的教会」であらねばなりません。福音の御言葉のみが豊かに鳴り響く「キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的教会」であらねばならないのです。逆に申しますなら、私たちはそれ以外の群れとしての教会を建ててはならないのです。だから20年前の新礼拝堂建築においても、私たちはただ新しい建物を建てさえすれば良いのだとは思いませんでした。「会堂建設はすなわちキリストの身体なる教会の形成であらねばならない」という志を共有して励んだことでした。

 

 今朝のルカ伝624節において、主イエスははっきりとこう言われました。「(24)しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである」。この「わざわいだ」とは「とても不幸だ」という意味の言葉です。そして「富んでいる」とは「自分自身で既に充足してしまっている」という意味です。つまり、主イエスはこう言われるのです。自分自身で既に「自分は満たされている。神もキリストも福音も自分には必要ない」と思いこんでいる人は「とても不幸だ」と。

 

先ほど教会を楽器に準えましたけれども、たとえばバイオリンに譬えて申しますなら、中身がぎっしりと詰まったバイオリンというものは存在しないわけです。バイオリンを持ってみると驚くほど軽いです。それは中身が空洞になっているからです。自足していないからです。空洞が大切なのです。いわばバイオリンは「鳴り響く空洞を持つ楽器」です。私たちの教会もそれと同じではないでしょうか。人間的に自尊自足した教会というものはもはや教会の名に値しないのです。むしろ教会は演奏者であられるキリストのために鳴り響く空洞であり続けなければならないのです。そのような「鳴り響く空洞であり続ける教会」のことを「カテキズム的教会」と呼びたいのです。

 

 顧みて、私たちの現実はどうなのでしょうか?。私たちは主なるキリストの御前に、自尊自足している「とても不幸」な者になっていることはないでしょうか。主は今朝の26節にこうおっしゃっておられます。「(26)人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである」。ここに「人々」とある言葉を「悪魔」と言い替えることができるでしょう。悪魔は自尊自足している教会が好きです。悪魔はキリストに頼らない教会、人間中心のが大好きです。私たちはそのような教会になってはなりません。私たちの葉山教会はいつも、キリストの御言葉のみが鳴り響く空洞であり続けたいのです。

 

 それでは、私たちが「カテキズム的教会」にいよいよ成長するためには何が必要なのでしょうか?。今朝の主の御言葉の中に確かな答えが示されています。それは26節に「偽預言者たち」という言葉が出てくることです。偽預言者というのは神の御言葉ではなく人間の思想のスポークスマン(代弁者)になった人々のことです。人々を喜ばせ、自尊自足させるための言葉を語った人々のことです。だからそれは預言者とは呼ばれず「偽預言者」と呼ばれたのです。

 

 この事を言い換えるなら、私たちの教会は「預言者的教会」であり続けなければならないということです。「偽預言者的教会」になってはならないのです。私たちの教会は神の御言葉、福音の真理のみが豊かに鳴り響く祝福された空洞であり続けたいのです。つまり、私たちにとって最も大切なことは、真の預言者たちがみなそうであったように、ただ神の言葉によって養われ続けることです。具体的に申しますなら、礼拝中心の生活を大切にすることです。キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的教会から離れないことです。キリストに固着することです。あのマルタの妹のマリアのように、主の御足元に座って御言葉を聴き続けることです。自尊自足せず、主の恵みの御手に自分を喜んで明け渡すことです。

 

 そのとき、私たちの人生に何が起こるのでしょうか。それは、私たちの全生涯が福音の喜びと自由の調べが鳴り響く「空洞」になる幸いが起こるのです。カテキズム的教会に連なる私たちの人生もまた、カテキズム的人生へと変えられてゆくのです。主はいつも、永遠に、私たちと共にいまして、私たちを支え、導き、祝福して、ついには祝福の極致である天の御国へと至らせて下さるのです。祈りましょう。