説    教     イザヤ書6113節   ルカ福音書62223

            「殉教者の幸い」 ルカ福音書講解 (43)

             2020・11・01(説教20441880)

 

 「(23)人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたは幸いだ。(24) その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。これが今朝、私たちに与えられた福音の御言葉です。主イエスはここで「殉教者たちの幸い」を私たちに語り告げておられるのです。

 

 「殉教者たちの幸い」と聞いて、みなさんはどのように感じるでしょうか?。私は今朝のこの説教題は、自分ながらとても風変わりな説教題であると自負しています。なぜなら、これは現代社会において最も一般受けのしない価値観だからです。あるいは「この説教題はイスラム原理主義を連想させる」と感じる人もいるかもしれません。先日フランスのニースで悲惨なテロ事件が起こりましたが、あのようなイスラム過激派こそ「殉教者の幸い」を信奉しているのではないか、そう感じる人もいると思うのです。

 

 だからこそ私たちは、今朝のルカ伝622,23節を読むとき、まさしくこれが主イエスの御言葉であることを知って、改めて驚かざるをえません。なぜなら主イエスはここで「もしもあなたがたが迫害を(苦しみを)受けるなら、それは幸いなことだ。だからむしろ喜びなさい、なぜならあなたがたは預言者たちの幸いに与かるものとされるからだ」そのようにはっきりと語っておられるからです。

 

 現代社会は自由と民主主義の大原則のもと、個人的な権利や自由が尊重される時代です。それ自体は決して間違ったことではありません。基本的人権や個人の自由は大切な近代民主主義国家の基本理念です。しかしその反面、個人の権利や自由だけで社会が成立つのだろうか、もっと大きな社会的な価値観が公共の福祉のためには必要なのではないだろうか、そのような考えかたもあるわけです。そしてそれに対して、そのような価値観は全体主義を志向するものだから良くないという修正意見がしばしば出されます。このように個人主義(左派)と全体主義(右派)の間を気ぜわしく行き来しているのが多くの民主主義諸国の現実ではないかと思うのです。

 

 それでは、主イエスの今朝の御言葉は全体主義的(右翼的)思想を私たちに物語るものなのでしょうか?。もちろんそうではありません。今朝の御言葉で何よりも大切なのは23節に出てくる「預言者」という言葉です。これは「未来のことを言い当てる人」という意味ではなく「神の御言葉を預かって、人々に正しく宣べ伝えるために召された人」という意味の言葉です。だから英語ではプロフェット“Prophet”といいます。これはもともと古代印欧語のプロファナイ“prophanai(神の御前に立って御言葉を聴く人)が語源になっています。つまり預言者とは「神の御前に立って御言葉を聴き、それを人々に正しく宣べ伝えるために神に召された人」という意味なのです。

 

 そこで、主イエスが今朝の22節と23節の御言葉を語られた背景には、バプテスマのヨハネのことがあったのではないでしょうか。バプテスマのヨハネはまさしく「神の御前に立って御言葉を聴き、それを人々に正しく宣べ伝えるために神に召された人」でした。ヨハネだけではなく、旧約聖書に登場する全ての預言者たちはそのような人々でした。そして彼らはその結果、当時の人々から迫害され、多くの苦しみや悩みを経験したのです。バプテスマのヨハネに至ってはヘロデ王の逆鱗に触れて投獄され、のちに姪のサロメの策略によって殺害されるという悲劇に見舞われました。エリヤ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモス、これらイスラエルの預言者たちはみな全て、迫害と苦しみを経験した人たちです。

 

 主イエスは私たちに、ここでこそはっきりと語りたまいます。「(23)人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたは幸いだ。(24) その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。

 

キリスト者の詩人である星野富弘さんの詩に「いのちより大切なもの」という詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。私は約30年前にあるバス停でバスを待っていたとき、この詩に出会って大きな感動を与えられました。星野富弘さんは若い頃に事故で首から下が完全に麻痺してしまった人です。入院した病院で毎日無意識に「畜生、死にたい」と言っていたそうです。一人の看護婦さんが星野さんに言いました。「あなたはなぜそんなに悲しいことを言うのですか?。私はクリスチャンです。もし良かったら聖書を読んでみませんか?」。それがきっかけになって星野さんは教会に導かれて洗礼を受けたのです。

 

 この星野さんがこう言われるのです。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった」。「命がいちばん大事だ」「命あっての物種だ」という論理は現代社会における私たちの常識になっています。それを否定しづらい雰囲気があります。しかし本当にそれで良いのでしょうか?。「命がいちばん大事だ」という論理は、裏を返すなら「命が終わったら人間には何の価値もない」「人間の価値は生命(健康)ある限りのものだ」更に言うなら「健康でない人間には価値がない」という理窟に繋がるのではないでしょうか。だからこそ星野さんは首から下が麻痺したとき絶望せざるをえなかったのです。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった」のです。

 

 それでは、星野さんが教会で見つけた「いのちより大切なもの」とはいったい何でしょうか?。「いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と星野さんは歌っています。その「いのちより大切なもの」とは、それはキリストとの出会いなのです。さらに言うなら、真の神の愛なのです。真の神に出会い、真の神を知り、真の神を信じ、真の神を礼拝することです。

 

 なによりも、主イエス・キリストは私たちにこう言われます。(23)人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたは幸いだ。(24) その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。この「人々」を事故、病気、逆境、不幸、困難、災害、いろいろな言葉で言い替えることができるでしょう。私たちは人生の歩みの中でいろいろな経験をします。楽しいことばかりの人生はありえません。むしろ人生には辛いことや悲しいことのほうが多いのではないかと思うのです。

 

 事故、病気、逆境、不幸、困難、災害、それらに加えて、心ない人から非難中傷を受けることもあるでしょう。信頼していた人に裏切られることもあるでしょう。近隣とのトラブルで夜も眠れないほど苦しむこともあるでしょう。その他数えきれないほどの患難試練を私たちは人生の中で経験するのではないでしょうか。しかし主イエスはそのような私たちにはっきりと言われます。「(23)(そのような患難試練の中にあってこそ)あなたがたは幸いだ。(24) その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。

 

 預言者たちの、殉教者たちの幸いは、喜びは、あなたがた一人びとりのものになるのだと主イエスは明確に宣言して下さるのです。殉教者という言葉はギリシヤ語ではマルトゥリア(=讃美する人)という意味です。私たちは人生全体を通していよいよまことの礼拝者(真の讃美を献げる人)と成長させて戴けるではないか。苦しみや悲しみの中にあってこそ、主の恵みの御手はいよいよ力強くあなたを支え導いて下さるではないか。「いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と讃美を献げうる人生へと、主なる神は私たち全ての者を招いておられるではないか。それこそ預言者たちの、殉教者たちの「幸い」に与かることではないか。そのように主ははっきりと私たちに語っていて下さるのです。だからこそ「あなたがたは幸いである」と宣言して下さるのです。

 

 ヨブ記3615節の御言葉に心を留めましょう。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。

 

 それだけではありません。なによりも、主イエスご自身が私たちの測り知れぬ罪のために、私たちを永遠に御国の民として下さるために、十字架への道を歩んで下さいました。神の御子みずから、最も大きな迫害を、悲しみと苦難を、私たちの救いのために受けて下さったのです。神の御子みずから、御自身測り知れぬ御苦しみによって、私たちの罪を贖い、御国の民となして下さったのです。それならば、今朝のルカ伝622,23節の御言葉は、主イエスの十字架を物語っているのです。

 

 最後に、今朝併せてお読みしたイザヤ書61161:13節をお読みしましょう。「(1)主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることを委ね、私を遣わして心の痛める者を癒し、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、(2)主の恵みの年と我々の神の報復の日とを告げさせ、また、全ての悲しむ者を慰め、(3)シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰に代えて冠を与え、悲しみに代えて喜びの油を与え、憂いの心に代えて、讃美の衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義の樫の木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」。祈りましょう。