説    教         詩篇57節    ルカ福音書621

            「悲しむ者は幸いなり」 ルカ福音書講解 (42)

             2020・10・25(説教20431879)

 

(21)あなたがたいま飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」。これが今朝、主イエス・キリストが聖霊によって私たちに語り告げておられる福音です。私たちはこのルカ伝621節の御言葉を聴いて、どのような第一印象を抱くでしょうか?。これは私の想像ですが、たぶんほとんどの人たちが「これはよくわからない言葉だ」「ちょっと理解できない」という印象を抱くのではないでしょうか。

 

 もしそうならば、その理由は実に単純だと思います。「飢えている人々」や「泣き悲しんでいる人々」が「幸いである」はずはないからです。むしろその真逆なのではないでしょうか。私たち人間は飢えて食べ物が無い状態や悲しみ嘆いている状態を「幸い」とは呼びえないのです。むしろその正反対なのです。飢えているならそれは不幸なことであり、悲しみ嘆いているならそれもまた不幸なことにちがいありません。それなのに主イエスは今朝の御言葉の中ではっきりと宣言しておられる。「(21)あなたがたいま飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」。

 

 私たちはこの主イエスの御言葉を、どのように聴いたら良いのでしょうか。いささか私ごとになりますが、私にはこの今朝の御言葉についてひとつの強烈な思い出があります。それは私が16(高校1年生)の時のことでした。私と教室の席が隣同士であり、最も親しくしていた友人が、急性白血病のために死んだのです。私は級友たちと一緒に彼の葬儀に出席しました。いわゆる豪農というのでしょうか、大地主の跡取り息子、しかも一人っ子として生まれた人でした。僧侶の長い読経の後で、私は級友たちと共に彼の棺桶を担いで数百メートル離れた墓地に埋葬しました。それは文字通りの「棺桶」でして、ようするに棺桶の中に死んだ友人は押し込められていたわけです。その友人の棺桶を私は級友たちと一緒に埋葬しました。

 

 その時の、彼の母上の悲しみの姿というものを、私は忘れることはできません。日本の昔の女性ですから、必死になって涙をこらえていたわけですが、それだからこそ最愛の独り子を喪った母上の悲しみは、なおのこと私の心に深く焼き付きました。何よりも私自身が大声で泣き叫びたかった。そこには絶望と悲しみだけがありました。そして、私はその友人の死を契機として、聖書を読むようになったのです。ところが聖書を一人で読んでいてもよくわからないことが多い。どうしたら聖書がわかるようになるだろうかと私は考えました。そこで思いついたのが「教会に行けば良いではないか」ということでした。それで私は生れて初めて教会の礼拝に出席したのです。高校2年生になったばかりの春のことでした。

 

 さて、私は生れて初めて出席した教会の礼拝の中で、使徒信条が唱えられた時に非常に驚いたのです。なぜなら使徒信条の中に「(キリストは)死にて葬られ陰府に降り」という一節があったからです。その教会の当時の牧師先生は森下徹造というかたでした。そして森下先生を心から尊敬していらしたハーバート・ベーケン(Rev.Herbert Beeken)宣教師が安中からよく来られて森下先生を助けておられました。私は礼拝が終わってから森下先生に、私が教会に来る契機になった出来事を説明しました。そして使徒信条の中に「(キリストは)死にて葬られ陰府に降り」とあることに非常に感銘を受けたことを申し上げ、キリストがどのようなかたなのか知りたい。それがわかるまで、私は絶対に礼拝を休みませんと申し上げたことをよく覚えています。

 

 その時、森下先生が私へのお話の中で示して下さった聖書の御言葉が、今朝のこのルカ伝621節だったのです。「(21)あなたがたいま飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」。使徒パウロがエルサレムのアナニヤから洗礼を受けたとき「目から鱗が落ちた」(使徒行伝918)と書いてあります。誇張でもなんでもなく、私もまたそのとき「目から鱗が落ちた」ような経験をさせて戴きました。つまり、主イエスはこの御言葉をただ単に「今あなたがたは悲しんでいるけれど、きっと笑顔を取り戻す時が来ますよ」(人生苦もありゃ楽もある)というような意味で語っておられるのではない、それが私にもはっきりわかったからです。

 

 どうか今日の21節の御言葉に改めて注目しましょう。主イエスはここで「あなたがたいま泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」とおっしゃったのです。大切なのは「いま」という言葉です。私たちにとって、悲しみが非常に大きな心の重荷である理由は、それが常に現在形であることによります。言い換えるなら、現在形ではない悲しみは本当の悲しみではないのであって、現在形の(つまり今の)悲しみであるからこそ、それは私たちの心の大きな重荷になるのです。英語にもグリーフ・エデュケーション(grief education)という言葉があります。「喪失を経験した人々への配慮」と訳すべきでしょうか。親しい者に死に別れた人の心のケアをどのようにするべきかという意味の言葉です。

 

 それならば、主イエスはここで最も慰めに満ちたグリーフ・エデュケーションをなさっておられると言えるでしょう。それは「いま、耐え難い悲しみの中にあるあなたのために、そしてあなたの大切な家族(友人)のために、彼ら全ての者たちの救いのために、私は十字架にかけられ“死にて葬られ、陰府に降った”唯一のキリストなのだと宣言しておられるからです。そのキリストは私たちにとってどのようなかたですか?。それは十字架の死によって永遠に罪と死の支配に勝利して下さり、私たちを恵みによってその復活の勝利の中に招き入れて下さるかたです。つまり、主イエスはこのように私たち全ての者に語っていて下さるのです。「私はあなたと、あなたの大切な全ての人の救いのために、死にて葬られ、陰府に降った者である。その私はいま悲しみ嘆くあなたの傍らに立って、あなたをどのような時にも堅く支え、あなたに復活の勝利の生命を与える」と!

 

 先日、石塚安彦さんの納骨式を鎌倉霊園の葉山教会墓所において行いました。そこでも遺族一同に語られた言葉は、この墓は人生の終着点などではない、そうではなく「復活の門である」という聖書の音信です。今日も、私たちはこの礼拝の後で「帰天者記念墓前祈祷会」を行います。それは罪と死の支配に永遠に勝利して下さった唯一の主イエス・キリストの御名によりて行われる祈祷会です。主イエスは十字架にかけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人の中より甦り、復活の初穂となって下さいました。それはここに集う私たち全ての者たちが、主の復活の生命にあやかる者とならせて戴くためです。墓の中にさえ、陰府にさえも、主はお降りになって、私たちの永遠の救い主となって下さったのです。今日の旧約と新約2つの御言葉を改めて心に留めましょう。

 

(21)あなたがたいま飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」(ルカ伝621)

(7)しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます」(詩篇57)