説   教       サムエル記上1221節   ルカ福音書620

            「神の国は汝等と共に」 ルカ福音書講解 (41)

             2020・10・18(説教20421878)

 

 「(20)そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」。今朝の御言葉・ルカ福音書620節を通して、いま聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストご自身が、このように私たちに宣べ伝えておられるのです。この620節から26節まで、数えかたの問題はありますが8つの幸いの教えが語られています。そしてもしこれが8つの御教えだといたしますと、マタイ伝5章にあるいわゆる「8つの祝福の御教え」と内容はともかく数の上では同じだということになります。

 

 そこで、今朝はその中の最初の「幸いの教え」である20節に私たちの心を留めて参りましょう。ここに主イエスは「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」と宣言しておられます。おそらくこの御言葉そのままに、ガリラヤ湖の畔の平原におびただしい群衆、しかもそのほとんどは「貧しい人たち」が集まっていたのだと思うのです。もしそうだとすれば、今朝のこの「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」という主イエスの御教えは「人々のありのままの状態に対する祝福」ということになるかもしれません。実際に「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」と言われたとき、そこに集まっていた大勢の群衆は喜んだと思うのです。

 

 かつて日本の高度経済成長期のさなかに「もはや戦後ではない」と宣言した総理大臣がいました。日本は敗戦によってとても貧しい国になってしまったけれど、その後国民が一致団結して頑張った結果、世界屈指の経済国家へと成長した。GNPも毎年上昇している。だから「もはや戦後ではない」と言ったのです。それから10年ぐらいして、今度は「一億総中流時代」と言われるようになりました。日本中どこを見渡しても貧しさに苦しんでいる人はいないじゃないか。国民ぜんぶが中流階級になったと言えるんじゃないか。もちろん問題はあったのですが、そのような意識が一般国民に浸透した時代があったのは事実です。

 

 やがて、その言葉と意識を裏付けるように、日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国へと成長してゆきました。終戦直後のあの焼け野原と混乱とを知る人々にとってはまさに奇跡的な豊かさが現実のものになったのです。そして現在はどうなのでしょうか?。相次ぐ大規模自然災害や少子高齢化、極めつけは新型コロナウイルスによる経済の低迷という問題はありますが、それでも日本は世界屈指の経済大国のひとつであることに変わりはないのです。世界的なレベルで見るならば、やはり現在の日本はとても豊かな国だと言えるのです。もしそうならば、私たちはここで素朴な疑問に行き当たらざるをえません。主イエスは今朝の御言葉において、たしかに「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」とおっしゃった。それならば、この「さいわい」は私たちとは無関係のものなのでしょうか?。あるいは、現在の日本社会の中にもやはり「貧しい人たち」は厳然として存在しているわけで、そのような一部の人たちだけに主イエスは「幸いだ」と語られたのでしょうか?。あるいはこれは主観的な貧しさのことを言われたのであって、自分が「貧しい人たち」の一人だと思えるなら「あなたは幸いだ」ということなのでしょうか?。

 

 答えは、そのどれも違います。主イエスはここで一部の貧しい人たち、あるいは主観的に「自分は貧しい」と思える人たちだけに「幸いである」と宣言しておられるのではありません。そうではなくて、私たちは20節の続く御言葉に注目しなくてはならないのです。すなわち主イエスが「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」とおっしゃっておられることです。ここに「神の国はあなたがたのものである」と主ははっきりと語っておられる。ここに今朝の福音の御言葉の中心があるのです。

 

 そもそも、主イエスがおっしゃる「神の国」とはいったい何でしょうか?。これは日本人に最もわかりにくい聖書の言葉のひとつかもしれません。私たちは「国」と聞きますと日本やアメリカやイタリアのような、具体的かつ歴史的な可視的国家のことを現わしていると感じるでしょう。だから「神の国」と言われると「そんなものがいったいどこにあるのか」と不思議に思うのです。しかし元々のギリシヤ語で言いますなら、この「国」とは「恵みの支配」を意味します。だから「神の国」とは「神の恵みの御支配」という意味なのです。さらに申しますなら「神の国」とはこの地上におけるあらゆる歴史的可視的国家の上にあって、それらを常に支え導いているものだと言えるでしょう。

 

 なによりも、私たちは主の祈りの最後に「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」と唱えます。この「国」とは「神の国」のことであると同時に全世界の全ての国家のことをさしています。つまり私たちはこの祈りの言葉によって、全世界の全ての国家は神の恵みと憐れみと御意志によって支えられ導かれているものだと告白しているのです。地上における国家はもちろん永遠ではありえません。永遠なる国は「神の国」だけです。その永遠なる「神の国」に支えられ導かれてこそ地上のあらゆる国家は正しく存続しうるし、正しく使命を果たすことができるのです。それと同じように、私たちの日々の生活も永遠なる神の恵みの御支配を受けてこそはじめて永遠の御国に繋がるものになります。このことを言い換えるなら、歴史と国家と人生の救いは「神の国」にあるのです。

 

  そうたしますと、主イエスがお語りになった「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」という御言葉は、ただ単に゜貧しいとか富んでいるとか、多くを所有しているとかいないとか、そのような問題を超えて、全ての人々に主がお語りになっておられる福音の告知だということがわかるのではないでしょうか。さらに言うならこういうことになります。主イエスがお語りになっておられる「神の国」の福音を聴いて信じる人は全て「祝福された貧しさ」に生きる人々とされるのです。そこに何の差別も例外もないのです。

 

 大切なことは、私たちのもとにいま「神の国=神の永遠の恵みの御支配」が訪れているという事実です。それは私たちが苦労して探し求めて見つけるものではなくて、主イエス・キリストがあなたのために来て下さったという驚くべき恵みの事実において「いまここにあってあなたを救う福音の告知」として語られているものなのです。神の国は単なる言葉ではなく、全ての人を救う力だからです。

 

 主はあなたを極みまでも愛しておられ、あなたを救うために世に来て下さり、そして十字架にかかって生命を献げて下さった。この出来事こそ福音の内容なのです。だからこそ主は言われました。同じルカ伝の1720節以下です。「(20)神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。(21)また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。そうです、主イエスが共におられるところに、いま「神の国」は来ているのです。だから「どこにあるんだろう」「あそこだろうか」「いつ来るんだろうか」と言って私たちが主体となってそれを探して、幸運な人だけがそれを見つけるというものではないのです。

 

 そうではなくて「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と主イエスははっきりと宣言して下さいました。なぜか、それは主イエスがいま、私たち全ての者の救いのために来て下さったからです。そして十字架への道を歩んで下さったからです。私たちの測り知れない罪を一身に担われて、主が十字架において贖いの死を遂げて下さったからです。そこにこそ「神の国=神の永遠の恵みの御支配」が来ているのです。現れているのです。その「神の国」の驚くべき祝福と幸いの中に、私たちの存在と人生の全体が祝福されているのです。このことを知るとき、私たちは今朝の御言葉に語られている「(祝福された)貧しい人たち」の意味がわかるのではないでしょうか。そうです、それは「あなたのために来て下さった主イエス・キリストを信じる人」のことです。私たちがいま、その「貧しい人たち」として主のもとに集められています。そして主の御手によって新しい人生の旅路へと遣わされてゆくのです。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」。祈りましょう。