説   教       詩篇405   ルカ福音書61719

            「群衆の中の主イエス」 ルカ福音書講解 (40)

             2020・10・11(説教20411877)

 

 今朝私たちに与えられたルカ伝617節以下の御言葉をもういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(17)そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、(18)教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。(19)また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである」。

 

 ここには、ガリラヤやユダヤ全土から集まってきたおびただしい群衆が、主イエスを取り囲む様子が記されています。その数は何千人、何万人、否、何十万人もの人々であったかもしれません。とにかく信じられないような数の群衆がガリラヤ湖畔におられる主イエスのもとに殺到し、18節にありますように「教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた」のでした。さらに19節には具体的な様子が記されています。それは「(19)また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである」とあることです。

 

 世によく言われるところの「群集心理」という言葉があります。私たち人間は一人でいる時には考えられないようなことを、群衆になると平気でしたりするものです。俗に言う「赤信号みんなで渡れば怖くない」的な心理状態です。事実、主イエスのもとに押し寄せてきた群衆は、非常に大胆な行動に出るのです。ある人々は主イエスの御教えを聞こうとし、またある人々は主イエスによって病気を癒して戴こうとし、またある人々は主イエスによって悪霊から解放して戴きたいと願い、またある人々は主イエスの身体になんとかして触ろうとしました。しかし、これら全ての人々に共通している一つのことは、誰もがわれ先に主イエスに近づこうとしたことではないでしょうか。

 

 自分の願いをかなえて戴くために、自分の病気を癒して戴くために、悪霊から解放して戴くために、他の人たちよりも少しでも主イエスに近づきたい、他の人たちよりも1メートルでも1センチでも主イエスの近くにいたい、そのようにみんなが願っていたことでした。この時のおびただしい群衆が全て、その一つの願いによって衝き動かされていたのだと言って良いのです。それは言い換えるならばエゴイズムという動機です。他の人々を押しのけて、何とかして自分だけが主イエスの近くに行こう、自分だけが癒しに与かろうとするエゴイズムです。

 

 実は、このエゴイズムこそ、今日に至るまで変わらずに続いている、人類に共通した行動原理だと言って良いのではないでしょうか。個人的なレベルにおいてはもちろんのこと、社会全体においても、ひとつの国の中でも、あるいは国際関係においてさえも、私たち人間は結局はエゴイズム(利己主義)によって行動している存在だと言って過言ではないのです。それをあまりに大っぴらに公衆の面前にさらけ出しますと非難されますから少しは遠慮しているだけのことです。しかし、自分がいざ大群衆の中に紛れ込んでしまうと、その遠慮という抑制が外れてしまって、却ってエゴイズムがむき出しになるのです。そこに群集心理の怖さがあるのです。

 

 それでは、このようなエゴイズムをむき出しにした大群衆の中にあって、主イエスはどのように行動なさったのでしょうか。実は私たちは今朝の御言葉の中に、この問いに対する見事な答えを見出すのです。それは18節にある「(主イエスは集まってきたすべての人々を)いやされた」という言葉、そして続く19節にある「それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである」という言葉です。私たちはここに「癒し」という言葉が繰返し出てくることに注目しなければなりません。

 

 なぜなら、ここで「癒し」と訳された元々のギリシヤ語は「救い」という意味の言葉だからです。つまり、主イエス・キリストは、エゴイズムをむき出しにしてわれ先にと集まってきた人々を排斥なさらず、却って彼らを暖かく迎え入れ、彼らの願いをお聞きになり、彼らの身体に手を触れたまい、また彼らに福音の御言葉をお語りになって、彼ら一人びとりに「救い」をお与えになったのです。ここに、群衆の中の主イエスのお姿があります。それは主イエスの地上におけるご生涯において終始一貫していた姿勢です。主イエスは群衆を決して排斥なさらず、逆に、彼らに「救い」をお与えになったのです。

 

 先週の説教の中で、私は北森嘉蔵先生のことを少しお話しましたけれど、北森先生があるとき私にこう言われたことがあります。「説教中に信徒が居眠りをするのは牧師の責任だよ。牧師はそれこそ“目が覚めるような説教”をしなければいけない」。私はこの言葉をよく思い起こします。ですから私が説教中の居眠りに対して寛大なのは北森先生のせいなのですけれども、私はこれは実はとても大切なことだと思っているのです。それはどういうことかと申しますと、たとえば葬儀の説教ということを例に挙げますなら、牧師はただ参列者たちの悲しみや嘆きに同調するだけではいけないのです。その悲しみや嘆きというものをきちんと受け止めた上で、それこそ“目が覚めるような”慰めと復活の福音を宣べ伝えなければならない。それが牧師たる者の責任なのだと思うのです。

 

 言い換えるならばこういうことになるでしょう。人間の根本的な問題の解決は人間の中には無いのです。人間の中に人間の救いは無いのです。だから牧師がどんなに人間の問題に深く沈潜しても、悲しみや嘆きを共有しても、それだけでは救いとはなりえないのです。もちろん、それをもきちんと受け止めつつ、しかも唯一の救い主であられる主イエス・キリストのみを指し示す、紹介する、その現臨を告知する、そのような説教がなされなければなりません。それこそが“目が覚めるような説教”です。言い換えるならば、群衆の求めに応じていい加減な「癒し=care」を与えることに留まってはならないのです。それを超えて、群衆の求めに遥かにまさる「救い」を宣べ伝えるものでなければならないのです。

 

 どうか私たちは、今朝の御言葉の最後の19節に心を留めましょう。「(19)それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである」救いの「力」はただ神の永遠の御子イエス・キリストにあるのです。少しも私たち自身の中には無いのです。だからこそ主イエスご自身の中から救いの「力」が出て、私たち全ての者を救うのです。その救いによって、私たちに何か起こるのでしょうか?。それはエゴイズムという罪によって支配されていた群衆の中の一人にすぎなかった私たちが、その罪を御子イエス・キリストの十字架によって贖われ、救われて、真の自由と幸いを得ることです。すなわち、私たちは十字架の主イエス・キリストの恵みによってのみ、全ての罪から解放されて、もはや群衆の一人としてではなく、喜び勇んで主の御跡に従い行く僕として、弟子として、歩む者とされるのです。

 

 そこに、私たちの唯一真の救いがあります。そこに私たちの本当の自由があります。そこに私たちの変わらぬ幸いと祝福があります。いまここに集う私たち全ての者たちに、かけがえのない汝として、主はその救いの恵みを豊かに与えて下さいます。その恵みの内に心を高く上げて、新しい一週間を主と共に歩んでゆく私たちとなりたとい思います。祈りましょう。