説   教      ホセア書66   ルカ福音書6611

            「安息日問答」 ルカ福音書講解 (38)

            2020・09・27(説教20391875)

 

 今朝、私たちに与えられたルカ伝66節以下は、次のような御言葉で始まっていました。「(6)また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手の萎えた人がいた。(7)律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日に癒されるかどうかをうかがっていた」。

 

 群衆の見ている前で主イエスに「面子を損なわされた=恥をかかされた」と感じた律法学者やパリサイ人らは、失った面子を取り戻そうと躍起になりました。彼らは主イエスの後を四六時中付け狙うようになり、なんとかして主イエスの言葉尻や行いを捕えて、律法違反の罪によって処罰しようと考えたのです。

 

さて、そこに絶好の機会が訪れました。それはある安息日のこと、主イエスと弟子たちが礼拝をささげるためにユダヤ教の会堂に入ったところ、そこに一人の「右手の萎えた人」がいたのです。これは良い機会が訪れたと、律法学者やパリサイ人たちは喜んだことでした。なぜなら、主イエスはきっとこの人の萎えた右手を癒すに違いない。もしそうなれば、今日は安息日だから「安息日には何の労働もしてはならない」という律法の規定に違反することになる。そう思って彼らは虎視眈々と様子を窺っていたわけです。それが7節の御言葉です「(7)律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日に癒されるかどうかをうかがっていた」。

 

 そこで、私たちは続く8節以下、つまり今朝の御言葉の後半部分を読みたいと思います。「(8)イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、真中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。(9)そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。(10)そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。(11)そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた」。

 

 主イエスは律法学者やパリサイ人らの悪巧みを見抜いておられました。そして彼らの思う壺にはまることがどんな危険をこき起こすかも承知しておられました。その上で主イエスは敢えてこの「右手の萎えた人」に近づきたまいます。すなわち主イエスは躊躇うことなくこの人にお近づきになり、彼の萎えた右手を優しく握って、こう言われたのです。「起きて、真中に立ちなさい」。ただ単に「立ち上がりなさい」と言われただけだはないのです。「起きて、真中に立ちなさい」と主イエスははっきりとお告げになった。この「真中」というのはもちろん、ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)の真中のことです。

 

 シナゴーグの「真中」には何があるのでしょうか?。そこにはモーセの律法を記した5つの巻物が安置されています。赤いビロードの幕がその巻物の上にありまして、そこには申命記64節また民数記1537節以下にある御言葉「イスラエルよ、聴け」“שְׁמַע יִשְׂרָאֵל”が記されています。つまり、主イエスはこの「右手のなえた人」をその、イスラエルに(全ての人々に)悔改めを迫る御言葉の前に立たせることによって、律法学者やパリサイ人たちにはっきりと告げておられるのです「イスラエルよ、聴け」と。あなたがたは悔改めなければならない。主なる神に立ち帰らなければならない。そのようにしてこそ、あなたがたは救いと生命と真の自由を得ることができる。主はそのように彼らに語りたもうたのです。

 

 すなわち、主イエスは今朝の9節ですが、彼らに対してこのように仰いました。「(9)あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。古代イスラエルにおいては右手は祝福を意味しました。つまり「右手の萎えた」というのは「神の祝福が見えなくなっていた人」のことです。さらに言うならば「神を見失っていた人」のことです。それは、私たちのことではないでしょうか?。もっと言うなら、全ての人のことではないでしょうか?。私たち人間は、どうにかして真の神に出会いたいと願いながら、その願いとは裏腹に、真の神から離れて行かざるをえない存在だからです。それは律法学者やパリサイ人らも同じでした。ここに登場する全ての人が、主イエスを唯一の例外として、みんな「右手の萎えた」なのです。

 

 だから9節の御言葉は「右手の萎えた」である律法学者やパリサイ人たちに対する救いと祝福への招きの言葉です。どうしてあなたがたは罪の中で滅んで良いだろうか。どうしてあなたがたは祝福を失ったままで良いだろうか。私はあなたがたに訊ねる、だからその問いに真剣に答えなさい「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とお訊ねになるのです。繰返して申しますが、これは全ての人に対する救いと祝福への招きの言葉です。つまり、ここに集う私たち一人びとりにも、主は同じように訊ねておいでになるのです。

 

 私たちは、この主の御質問に対して、どのように答えるべきなのでしょうか?。なによりも大切なことは「安息日の主」はイエス・キリスト御自身であるという事実です。これは既に主イエスみずから5節で明らかにしておられることです。それならば、私たちはいつも「安息日の主」をしっかりと見つめているかどうかが問われているのです。それは「真の礼拝とは何か」という問題に繋がることです。この問いに対して、改革者マルティン・ルターが見事な答えを示しています。ルターによれば真の礼拝とは「神の言葉が正しく宣べ伝えられ、聖礼典が御言葉に従って正しく執り行われ、キリストの現臨が正しくさし示される神奉仕」です。すなわち真の礼拝の中心は、いまここにおいて救いの御業をなさっておられる主イエス・キリスト御自身です。

 

 このことがいつも明確になっていませんと、礼拝もまた形骸化した生命の無いものになるのではないでしょうか。特に、ルターが用いている「神奉仕」とはドイツ語で言うなら“Gottesdienst”です。このドイツ語は(1)私たちが神に対して献げる奉仕。(2)神が私たちに対して行って下さった救いの御業。この2つの意味を持っています。私たちは(1)についてはわかっていることが多くても、(2)についてはよくわかっていないことが多いのではないでしょうか。しかし真の礼拝において大切なのはむしろ(2)なのです。すなわち「神が私たちに対して行って下さった救いの御業」こそが大切なのです。

 

 だからこそ主イエスは、律法学者やパリサイ人たちに「神が私たちに対して行って下さった救いの御業」によって、明確な答えをお示しになります。今朝の御言葉の10節をご覧下さい。「(10)そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった」。律法学者やパリサイ人らが主イエスのご質問に答えられなかったのは、彼らは人間の目を怖れて、神を畏れていなかったからです。その彼らを主イエスは「見まわして」右手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とお命じになります。するとその萎えた手がたちまち癒されまして、彼はシナゴーグの真ん中で群衆と共に神を讃美したのです。

 

 これこそ、私たちに主なる神が「真の礼拝」によって与えて下さる救いの恵みです。神を知りえなかった私たちでした。神に立ち帰る道を知らなかった私たちでした。神の祝福を見失っていた私たちでした。神を讃美することができずにいた私たちでした。その私たちが、真の礼拝によって、すなわち今ここに現臨しておられ、救いの御業を現わしておられる主イエス・キリストによって、真の神を知り、神に立ち帰り、神の祝福の内に人生の真ん中に喜んで立つ者とされ、神を讃美しつつ歩む者とならせて戴いたのです。それが私たち全ての者にいまここで現わされている真の礼拝の恵み、すなわち、神が私たちに対して行って下さった救いの御業です。

 

 新しい一週間が始まりました。どうか私たちはこの真の礼拝の場から、神から与えられたそれぞれの人生の場へと、勇気と、喜びと、平安を持って出てゆく僕たちとならせて戴こうではありませんか。「安息日の主」が、いつも、いつまでも、変わることなく、私たちと共におられるのです。祈りましょう。