説   教      サムエル記上216   ルカ福音書615

            「安息日の主」 ルカ福音書講解 (37)

            2020・09・20(説教20381874)

(1)ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。(2)すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。今朝の御言葉、ルカ伝61節以下は、このような御言葉で始まっています。それは主イエスが弟子たちと共に、麦畑の中を歩いておられた時のことでした。ちょうど時刻は昼頃でもあり、お腹が空いていた弟子たちは、麦の穂を摘んでそれを両手で器用に揉んで殻を取り、めいめい勝手に麦の粒を食べていたわけであります。これは古代のイスラエルにおいては、ごく普通に見られた光景でした。律法の掟においても、この行為は空腹を凌ぐためのものとして認められていたのです。

 

 私はかつて農学校で学んでいたとき、この時の弟子たちと全く同じことをしたことがあります。麦の穂がある程度に熟して堅くなりますと、手で揉んで殻を取り除いて、食べることができるようになります。麦のほのかな甘みを感じることができて、なかなか美味しいものでした。オートミールのような風味があります。弟子たちも、子供の頃からそのようにして空腹を凌いでいたのでありましょう。ところが、この弟子たちの行為をたちまち見咎めた者たちがいたのです。もちろんパリサイ人たちでした。すなわち今朝の2節にこうあるとおりです。「(2)すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。そうです、その日はユダヤ教の安息日である土曜日にあたっていたのです。

 

パリサイ人らの理屈はこうでした。安息日には如何なる労働もしてはならない。それはモーセの十戒によって堅く禁止されていることだ。それなのにあなたの弟子たちは、麦の穂を摘んで手で揉んで食べるという「労働」をした。麦の穂を摘むことは収穫、穂を手で揉んで殻を取ることは脱穀と籾摺りをすることだ。これらは立派な労働にあたる。つまり、あなたの弟子たちは安息日に労働をして律法に対する違反を犯したことになる。これがパリサイ人らの理屈でした。

 

 このパリサイ人らに対する主イエスのお答えが3節以下に記されています。「(3)そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。(4)すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。(5)また彼らに言われた、『人の子は安息日の主である』」。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・サムエル記上216節には、ノブの祭司アヒメレクが僅か数名の供を連れて逃れてきたダビデに対して行ったことが記されています。「(6)そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである」。ダビデはサウル王から逃れるために親友ヨナタンの手引きによってノブのアヒメレクのもとに逃れました。その時ダビデと供の者たちは極度の飢餓に瀕していました。とにかく何か食べるものをダビデに与えなければ彼は死んでしまうだろう。そう判断したアヒメレクは、神殿において神に献げられた「聖別された供えのパン」を手渡して、それを食べるように勧めたのでした。主イエスはこの逸話を今朝の3節と4節で引用なさっておられるわけです。

 

 さて、祭司アヒメレクが聖別された供えのパンをダビデに手渡したのは、ただ単に他に食物が無かったからではないと思います。つまり「仕方が無いから」ではなかったと思います。そうではなく、ダビデに供えのパンを与えることが神の御心であると信じたからです。つまり、祭司アヒメレクは、供えのパンよりも神の僕ダビデの生命のほうが大事だと判断したのです。パンはいかに聖別されたものであっても、それはパンであって、決して神ではありません。しかしパリサイ人らはそこをはき違えていました。パリサイ人らにとっては律法の掟は金科玉条のごときものであって、いつのまにか物質に過ぎないパンでさえ神格化されていたわけです。

 

 それと同じ間違った価値基準を、パリサイ人らは主イエスの弟子たちにも当てはめようとしました。今日は安息日だ。安息日にはいかなる労働もしてはならない。それなのにナザレのイエスの弟子たちは麦の穂を摘んで、掌で揉んで食べている。それは労働だ。収穫と脱穀と籾摺りをしたことだ。とんでもないことだ。律法に対する違反行為だ。大きな罪だ。そのように彼らは判断したわけです。

 

 これに対して主イエスは、いやいや、そういうものではない。かつてダビデと供の者たちが極度に飢えて死にそうになっていたとき、祭司アヒメレクは神殿にあった聖別された供えのパンを惜しげもなく彼らに与えたではないか。それはアヒメレクは供えのパンよりもダビデの生命が大事だと判断したからだ。それと同じように、今日がたとえ安息日であっても、私の弟子たちが飢えて麦の穂を摘んで食べたことが、どうして罪になるのだろうか。何よりも、あなたがたは安息日の意味が全くわかっていないのではないか。安息日は礼拝のために聖別された日なのだ。パンのために聖別された日なのではなく、主なる神のために聖別された日である。それならば、それは全ての人々にとって「救いの日」であり「生命の日」であるはずだ。そのように主イエスはお答えになったわけです。

 

 そして最後に、主イエスはパリサイ人らにこうおっしゃいました。今朝の御言葉の最古の5節です。「(5)また彼らに言われた、『人の子は安息日の主である』」。この「人の子」というのは主イエスのことをさしています。旧約聖書のダニエル書に出てくる、キリストをあらわす特別な表現です。ですから主イエスはこの「人の子」という特別な言葉を用いることによって、パリサイ人らに対して、ご自分が神の永遠の独子キリストであられることを明白に言い表しておられるわけです。言い換えるならばこういうことです「私が安息日に礼拝される神なのだ」。紛れもなく主イエスはそのように語っておられるわけでして、これは大変な御言葉であると言わなければなりません。

 

 言い換えるなら、それはこういうことになるのです。主イエスはパリサイ人たちに対しまして「あなたがたが守っている安息日は間違いだ」とはっきりおっしゃっておられる。あなたがたは「供えのパン」のほうが大事だと判断してダビデと供の者たちを見殺しにする者たちだ。つまり、安息日のことが何ひとつわかっていない者たちだ。安息日は真の礼拝のためにあるのだ。真の礼拝は全ての人に祝福と救い、そして永遠の生命を与えるものだ。その真の礼拝において、私こそが「安息日の主」なのだ。そのようにはっきりと主イエスは語られたのです。

 

「人の子は安息日の主である」とはそういう意味の言葉です。主イエスが共におられるところ、主イエスが私たち全ての者のために十字架を担って下さるところ、主イエスが生命の御言葉を私たちにお語りになるところ、そこにこそ「真の礼拝」があるのです。主イエスはその「真の礼拝」の日である「安息日の主」でありたもうのです。この事実にまさる幸いと喜びがどこにあるでしょうか。私たちは十字架の主イエス・キリストの現臨のもとに集められ、一つとされた群れとして、いつも真の礼拝をささげ続けて参りたいと思います。「安息日の主」こそ、私たちの唯一の救い主であられるのです。祈りましょう。