説   教   エレミヤ書1778  ルカ福音書53335

            「キリストの弟子」 ルカ福音書講解 (35)

            2020・09・06(説教20361872)

 

 今朝のルカ福音書533節以下をもういちど、口語訳でお読みしたいと思います。「(33)また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。(34) するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。(35)しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。

 

 パリサイ人や律法学者たちは何とかして主イエスを陥れ、民衆の支持を失わせ、失脚させようと、虎視眈々とその機会を狙っていたのです。ところがなかなか主イエスの言葉尻を陥れることができなかった彼らは、主イエスの弟子たちを攻撃対象にします。すなわち33節に「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と語ったことです。

 

 ここでパリサイ人らが言う「ヨハネの弟子たち」とはバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。イスラエルの死海の近くにクムランという古代ユダヤ教(エッセネ派)の修道院の遺跡がありますが、そこがバプテスマのヨハネの弟子たちがいたところだと考えられています。そこでの生活は非常に厳格かつ禁欲的なものでした。それこそここでパリサイ人らが語ったように、バプテスマのヨハネの弟子たちは修道院において「しばしば断食をし、また祈をして」敬虔かつ禁欲的な日々を過ごしていたのです。

 

 ところが、主イエスの弟子たちはどうかと申しますと、どうも敬虔かつ禁欲的な生活をしているようには見えない。むしろ33節の終わりにあるように、主イエスの弟子たちは「食べたり飲んだりして」いる。これは直接的にはすぐ前の527節以下に記された、取税人レビの家における「盛大な宴会」の席での弟子たちの姿を示しているのだと思います。たぶんそこで主イエスの弟子たちはご馳走をたらふく食べ、またぶどう酒をたくさん飲んで、いわゆる無礼講と申しましょうか、やや羽目を外していたのではないでしょうか。そのような主イエスの弟子たちの行状を苦々しく思ったパリサイ人らが、主イエスに向かって「あなたは弟子たちのあの姿を見て恥ずかしくないのですか?」と詰め寄ったわけです。ようするに彼らは主イエスの監督責任を問題視したのです。

 

 そようなパリサイ人・律法学者らの批判に対して、主イエスはどのようにお答えになったのでしょうか。それが今朝の34節以下に記されています。「(34) するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。(35)しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。

 

 なんと主イエスはここで「婚礼の祝宴の譬え」をお語りになるのです。もしあなたがたが友人の結婚式に招かれたとしたなら、あなたがたはそこで断食をするか?と問いたもうのです。もしもそんなことをしたら花婿と花嫁に対して最大の侮辱をすることになるだろう。だから婚礼の祝宴においては誰一人として断食などする者はない。むしろ大いに食べたり飲んだりしてお祝いをするではないか。大きな喜びを共にし、祝福にあずかるではないか。主イエスは言われるのです、私の弟子たちもそれと同じなのだ。花婿なるキリストが共にいる喜びの祝宴で、どうして断食をしたり暗い顔をしていることができるだろうか。

 

 おそらく主イエスのこの言葉を聴いて、パリサイ人や律法学者たちは自分たちの間違いを悟ったのではないでしょうか。たとえ悟らなかったとしても、ああそうだ、ここは喜びの祝宴の席なのだと、改めて気がついたのではないでしょうか。ここに、バプテスマのヨハネの弟子たちと主イエスの弟子たちとの大きな違いがあるのです。それは日常生活を楽しむべきか否かというレベルの問題ではありません。そうではなくて、自分たちは誰を「主」として生活しているのかという問題なのです。

 

もしも「主」が自分自身であるなら、つまり、なんでも自分自身で決済し解決しなければならないのなら、私たちは常に断食して暗い顔をしていなければならなくなるでしょう。それは、いわゆる禁欲主義的な生活を自分に強いることによって、日常生活をより高度なステージへと押し上げようとする試みです。ほとんど全ての宗教がそういうステージアップを私たちに求めるものだと言って良いのです。事実、今朝のパリサイ人や律法学者らも、そういうステージアップの最終ステージに神がおられるのであって、そこに到達できた者だけが救われるのだと考えていたわけです。プラトン哲学で言うところの「エロースの階段」と同じ救済論です。要するに人間の自助努力が救いの根拠だとする教えです。

 

 しかし、そこには救いは無く、平安も無く、もちろん喜びもありません。主イエスの弟子たちが喜んで食べたり飲んだりしていたのは、主イエスの弟子にならせて戴いたからです。もっと言うなら、主イエスが共にいて下さるからです。私たち人間にとって、それ以上の喜びと平安はないのです。主イエス・キリストが共にいて下さること、主が私たちの罪を贖って下さること、まさにそのようなキリストとして、永遠に私たちと共にいて下さること、それにまさる喜びと平安はないのです。その喜びと平安を知らないまま、どんなに熱心に断食をしようとも、それは虚しいことではないでしょうか。

 

 私たちの救いは、私たち罪人のただ中に来て下さり、そこで私たちのために十字架におかかり下さった神の永遠の御子イエス・キリストにのみあるのです。少しも私たち自身の中に救いの根拠はないのです。ただ十字架のキリストにのみいっさいの救いの根拠があるのです。そのことを知るとき、主の御身体なる聖なる公同の教会の枝とされたとき、私たちの人生に本当の喜びと平安が満ち溢れます。それこそ婚礼の喜びの祝宴に私たちは招かれているのです。それは唯一の主イエス・キリストを中心とした婚礼の祝宴です。今朝、併せて拝読したエレミヤ書177,8節は「流れのほとりに植えられた木」について語ります。木は自分で動くことはできません。自助努力によって自分を救うことはできません。ただ主が私たちを生命の水の流れの畔に植えて下さいます。主の御身体なる教会に連なる僕とならせて下さいます。そこに私たちの救いがあるのです。

 

 さて、今朝の最後の御言葉に耳を傾けましょう。そこでこそ、主は私たちに厳かに宣言なさいます。私たちは心してその御声を聴かなくてはなりません。今朝の最後の35節です。「(35)しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。この「花婿が奪い去られる日」とは十字架の出来事をさしています。だからこの35節の御言葉は主イエスによる最初の十字架の予告だと言えます。そこで問われているのは私たちの姿勢です。信仰の姿勢です。主イエスに対する私たちの信仰による応答です。主イエスは、それは私たちが「断食」することだと言われるのです。この「断食」とは真の礼拝をさしています。つまり、こういうことです。十字架の出来事は私たちに何を語り告げているのでしょうか?。それは神の永遠の御子イエス・キリストが、私たちの贖いとして御自身の全てを献下て下さった救いの出来事です。

 

 それならば、その救いの出来事を知った私たち、その救いの出来事の中に新しく歩む者とされた私たちは、その救いの出来事を現して下さった主イエス・キリストに対して「霊とまこととによる真の礼拝」(ヨハネ4:24)を献げる者とされるのではないでしょうか。そして今、ここで、私たちはその「霊とまこととによる真の礼拝」を献げる僕たちとされています。なぜでしょうか?。それは十字架の主イエス・キリストが、復活の主として聖霊によっていまここに親しく現臨していて下さるからです。そこに、私たちの変わらぬ救いがあり、喜びと平安があるのです。祈りましょう。