説   教      詩篇10921  ルカ福音書52732

            「救いを受ける者」 ルカ福音書講解 (34)

            2020・08・30(説教20351871)

 

 今朝、私たちに与えられたルカによる福音書527節以下の御言葉は、このように始まっていました。「(27)そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。(28)すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた」。ここには新しく「レビ」という人が登場して参ります。かれは「取税人」であり「収税所にすわって」いた人でした。つまり取税人としての勤務中の出来事だったわけです。

 

 ここで「取税人」とは何かと言うことをお話したほうが良いと思います。当時のイスラエル(ユダヤ)はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は強力な軍事力とローマ法という法律によって全ての植民地を支配しました。そしてローマ法によれば、植民地の住民は宗主国であるローマのために税金(人頭税)を納めなければなりませんでした。この人頭税を取り立てるためにユダヤ人の中から選ばれた人々を「取税人」と称したのです。

 

 ですから彼ら取税人は、同胞であるユダヤの人々から「ユダヤ人でありながらローマの手先になって人頭税を集めている売国奴」と見なされ、蛇蝎の如くに嫌われ蔑まれていたのです。実際に彼らは既定の人頭税よりも多くの金を強制的に取り立て、それで私腹を肥やすのを常としていました。このレビがそうした不正をしていたかどうかはわかりません。しかしひとつ確実なことは、レビは取税人としてとても孤独な境遇であったことです。そして恐らく彼はその孤独の不安をかき消すように、毎日「収税所」で懸命になって働いていたのだと思います。

 

 まさにこの取税人レビのもとに、主イエスが近づいてきて下さいました。改めて今朝のルカ伝527節をご覧下さい。「(27)そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた」。聖書はこともなげに淡々と記していますが、これはユダヤの人々から見れば驚天動地のことでした。人々はおそらく口々に噂し合ったに違いないのです。「ナザレのイエスはなんと、あの罪人のレビのもとを訪ねた」と。たぶんこの事実だけで主イエスに失望し、主イエスのもとから立ち去る人々が少なからずいたのではないでしょうか。

 

 とこが主イエスは一向に屈託なさらない。当然のごとくにレビが座っている収税所を訪れたまい、そしてレビに向かってたった一言「われに従え」と言いたもうたのです。そして私たちがもうひとつ驚くべきは、この主イエスの御招きに対するレビの反応の速さです。すなわち28節を見るとこうございます「(28)すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた」。この「すると」というのは原文のギリシヤ語では「ただちに、すぐに、躊躇わずに」という意味の言葉です。それこそすくっと立ち上がり、直ちに主イエスにお従いしたレビの息遣いが聴こえるような言葉です。

 

 どうぞ続く29節以下をご覧下さい。「(29)それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。(30)ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。(31)イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。(32)わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

 

 主イエスに訪問して戴き、主イエスから招きの御声を戴いて、主イエスの弟子とされたレビは、その喜びを現すために、主イエスと弟子たちを自宅に招いて盛大な宴会を催したのです。そこには同じ収税所で働いていた他の取税人たち、また「そのほかおおぜいの人々」が来て同じ食卓についていました。もちろんその食卓の主は主イエスです。主イエスは手ずからパンをお取りになり、それを祝福して割かれ、人々にお配りになったことでした。そしてその食卓において人々は親しく主イエスの御口から神の国の福音を聴いたのです。

 

 そこに居合わせた人々の喜びと幸いは、どんなに大きなものだったことでしょうか。神の永遠の御子みずからが、神の国の(神の永遠の恵みの御支配の)福音を語り告げて下さるのです。その福音は主イエスの御口から語られると同時に、そこに力を持って実現しているのです。すなわちそれは聖なる公同の使徒的なる教会です。そして教会に連なる者たちは全て、現臨したもう主イエスの御口から神の国の福音を聴き、主イエスの御手から生命のパンを戴き、主イエスを唯一のかしらとする幸いの内にあって、礼拝者の群れへと成長してゆくのです。それこそ、まさにいま私たちのただ中に現されている救いの恵みです。教会は単なる人間の集まりではなく、十字架と復活のキリストの御身体だからです。

 

 ところが、この大きな喜びと幸いを受け容れることができず、むしろ忌々しいことだと考えていた人々がいました。30節をご覧下さい。「(30)ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。ここでは彼らは、さすがに大きな声を出すことは憚られたと見えまして、こっそり主イエスの弟子たちを物陰に呼んで申しますには「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」と「つぶやいて言った」と記されています。この「つぶやいて言った」というのは、ようするに主イエスの弟子たちを脅迫したのです。「ナザレのイエスの弟子であるお前の身に何が起こっても知らないぞ」と脅しをかけたわけです。

 

 この、パリサイ人や律法学者たちの悪巧みを見抜かれた主イエスは、彼らに近づいてはっきりと言われました。今朝の最後の31節と32節をご覧下さい。「(31)イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。(32)わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

 

 これは何という明確な御言葉でしょうか。しかし私たちは、実はこの明確なことを忘れやすいのです。事実として私たちは、自分の罪の重荷は自分自身で何とか解決しなければならないと、真面目な人であればあるほどそう思いこんで、自分を窮地に追いこんでしまうのではないでしょうか。私たちは肉体の病気の時には躊躇わずに医者にかかります。特に日本は世界的に見ても最も医療制度が充実している国のひとつです。ヨーロッパなどでも病院に行くというのは余程の病気の場合に限られるのですが、日本では症状が軽くてもとにかくまず医者に行こうとします。

 

 ところが、肉体の病気に関しては神経質すぎるほど気を使う私たちが、こと魂の病気である罪の問題になりますと、驚くほど無防備なのはどうしてなのでしょうか?。それこそ本末転倒というべきでありましょう。主イエスははっきりと私たちに語りたまいました。「(31)健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。(32)わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

 

さても、現代人は困ったものでして、ここで主イエスが「罪人を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃっておられるのを聞いて「なんだ上から目線でものを言って」と感じる人が少なくないようです。そういう人は自分が「悔改め」の必要が無いと思いこんでいるのでしょうか?。「自分の魂は完全無欠であるから治療の必要などはない」と思いこんでいるのでしょうか?。私たち人間にとって最も大切なこと、それは真の神に立ち帰ることです。「悔改め」とは「真の神に立ち帰ること」です。

 

今日、合わせて拝読した旧約聖書・詩篇10921節に、このようにございました。「(21)しかし、わが主なる神よ、あなたはみ名のために、わたしを顧みてください。あなたのいつくしみの深きにより、わたしをお助けください」。あるとき「救いに値する人とは誰のことですか?」と問う弟子たちに対して、主イエスは「主なる神は針の穴にラクダを通すことさえおできになる」とお答えになりました。言い換えるなら、私たちの救いの根拠は少しも私たち自身の中には無いのです。それはただ主なる神の恵みの賜物なのです。

 

 しかも、それはこの詩篇109篇で宣べ伝えられているように、神の永遠の御心に基づくものです。すなわち、主なる神は「御名のゆえに…私たちを救いたもう」のです。その「御名」とは主イエスの御名です。私たちはただ主イエス・キリストの十字架によってのみ救われるのです。だからこそ、その救いは全てにまさって確かなのです。私たちの救いの確かさ、それは、十字架の主イエス・キリストの救いの恵みの確かさなのです。祈りましょう。