説   教     詩篇6114  ルカ福音書52126

            「究極問答」 ルカ福音書講解 (33)

            2020・08・23(説教20341870)

 

 今朝お読みした旧約聖書・詩篇611節以下に、このようにございました。「(1)神よ、わたしの叫びを聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。(2)わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて、わたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください。(3)あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです」。

 

 この詩篇の詩人の神に対する叫びは同時に、主イエスによってらい病を癒して戴いた人の魂より出る祈りでした。私たちはその出来事について、既にルカ福音書512節以下で学びました。それはこの人にとって単なる肉体の癒しではなく、神の御力による唯一の「救い」の出来事でした。ところが、誰にとっても喜ばしいはずのこの救いの出来事を、喜ばなかった者たちがいたのです。それは主イエスの身辺を調査するためにエルサレムからガリラヤに遣わされたパリサイ人や律法学者たちでした。

 

 とりわけ、彼らが問題視したのは、主イエスがこのらい病患者に対して「人よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されたことでした。これは聞き捨てならない由々しきことだと、彼らは思ったことでした。なぜなら律法の規定によれば、罪を赦す権能を持っているのはただ神お一人であって、人間には罪の赦しの宣言をすることは許されていなかったからです。だから彼らの目には、主イエスがなさった癒しの出来事も神に対する神聖冒涜と捉えられたのです。

 

それで、彼らはすぐに主イエスに対して怒りと審きの矛先を向けました。今朝の21節をご覧下さい。「(21)すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた」。ここに「論じはじめた」とありますのは、律法の規定に従って、自分たちの意見に同意してくれる第三者の証人を探していたことを示しています。つまり、パリサイ人や律法学者たちは、わざと周囲の人々に聞こえるような大きな声で「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言ったわけです。

 

 つまり、彼らは大きな声でこのように言ったのです。「皆の衆、よく聞いてくれ、いままさにこのナザレのイエスなる男は、はっきりと罪の赦しの宣言を行った。これは律法を汚す神聖冒涜の罪にあたることだ。あなたたちもみんなその声を聴いたはずだ」。そのようにして彼らは民衆を自分たちの味方に引き込もうとしました。だいたいにおいて「みんながそう言っている」の「みんな」ほど実体のない空虚なものはないのですけれども、しかしこの場合怖いのは、パリサイ人や律法学者たちには権力があったことです。ここで民衆の側から異議が出なければ、彼らは直ちに主イエスを捕えてエルサレムの大祭司のもとに連行することができたのです。

 

 この彼らの悪巧みを、主イエスはすぐに見抜きたまいました。そして今朝の22節と23節でこのようにおっしゃったのです。「(22)イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。(23)あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか」。これこそ「究極問答」でした。つまり、パリサイ人や律法学者たちにしてみれば、主イエスをナザレでしたように崖っぷちまで追いやったと思っていた。ところが、いま逆に彼らのほうが主イエスによって崖っぷちに追いやられているわけです。だから主イエスの23節の御言葉こそ「究極問答」でした。この問いに正しく答えられるか否かによって、実は人生において最も大切なことか決定するのです。それは、私たちが真の神に立ち帰り、神と共に歩むキリストの僕になることです。

 

 そこで、これは改めて、私たち自身への主イエスの問いとして考えてみなくてはなりません。私たちはこの主イエスの「究極問答」に対して、どのように答えるのでしょうか?。「(23)あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか」。私たちはその「どちらがたやすい」と考えるのでしょうか?。

 

 普通に、常識的に考えますならば、答えは明らかだと思います。つまり、私たち人間の常識は「あなたの罪は赦された」と宣言するほうがより簡単である(よりたやすい)と判断するのではないでしょうか?。なぜなら、病人に対して「起きて歩け」ということは目に見える結果を伴うことですが「あなたの罪は赦された」と宣言することには目に見える結果が無くても良いと思われるからです。要するに、私たちにとって重要なことは「目に見える事柄」である。いわば唯物論が(目に見えることだけが)私たちの真理判定基準になっていることがほとんどなのではないでしょうか。

 

 その結果、人間は、また今日の私たちの世界は、どうなっているのかと申しますと、それは弱肉強食・適者生存の巷と化しているのではないかと思うのです。つまり環境に即応した者だけが自己の生命を伸長できる、エクステンションできる、拡大できる、そのような世界観、人生観というものを、私たちは「当然のこと」のように受け容れ、自分をその唯物論路線に従って拡張する、自己実現をする、言いかたはいろいろありましょうけれども、要するにエクステンションというのは生物学の用語としては「空間占有率」のことです。簡単に申しますなら、自分さえ良ければそれで良いのだとする価値基準です。

 

 そのような私たちの、いわばパリサイ的、律法主義的な価値基準に対しまして、主イエスは明確に「それは違う」とおっしゃって下さるのです。そればかりではない、主イエスは罪の中にどっぷりと漬かりこんで一歩も動こうとしない私たちに対しまして「我は道なり、真理なり、生命なり」とお語りになりたまい「我に従え」と私たちを救いと生命の道へと歩ましめて下さるのです。さらに申しますなら、それだけでさえない。主イエスは罪人のかしらなる私たちのために、みずから十字架への道をまっしぐらに歩んで下さり、御自身の全てを献げて私たちの罪の贖いとなられ、救いを成就して下さったかたなのです。

 

 今朝の御言葉の24節以下をご覧下さい。「(24)しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。(25)すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。(26)みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った」。

 

 今朝の御言葉において、答えは明らかです。「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言うことよりも「あなたの罪はゆるされた」と語ることのほうが遥かに、遥かに難しいのです。両者を比較することさえできないほどです。なぜでしょうか?。罪の赦しはただ神のみがなしたまえることだからです。重症の病人を癒して立ち上がらせることは、あるいは人間でもできるかもしれません。事実、医学の進歩によって、そのような場面は決して珍しくはなくなっています。しかし「あなたの罪は赦された」(子よ、汝の罪赦されたり)と宣言することは、ただ神のみがなしたもうこと、それこそ唯一究極の「救い」です。だからこそ、それが最も難しいこと、即ち、私たちの人生において最も大切なことなのです。

 

 主イエスは、それを全く理解していない(理解できない)でいるパリサイ人や律法学者たちに対して24節に「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と言われます。一昨年の811日に天に召された私の友人・水野穣君がこの御言葉について「主イエスは受肉された神の言葉として、パリサイ人や律法学者の言葉(コンテキスト)の中に降りて来て下さった。それは彼らをも救いに入れるためであった」と語っています。私も全く同感です。主イエスはパリサイ人や律法学者たちをも救うために、彼らの理解できる言葉(コンテキスト)にまで身を低くして下さったかたなのです。

 

 そうすると、どうなるのでしょうか?。今朝の25節以下が全体の結論です。「(25) すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。(26)みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った」。ここに記されている「救い」の出来事は2つの「驚くべきこと」を私たちに現しています。それは第一に「病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った」ということ。そして第二に「みんなの者は驚嘆して…神をあがめ、おそれに満たされ」たということです。

 

 ここに共通していることは、主イエスの救いによって、全ての人たちが「神を崇めた」という事実です。らい病を癒して戴いた人も、それを目の当たりにした大勢の人々も、おそらくパリサイ人や律法学者たちも、そこにいた全ての人々が「神を崇める」者とされたのです。それは、真の救いの出来事が起こった徴です。神から離れていた者が神に立ち帰り、御国の民とされたのです。それこそが、私たち全ての者にいま現わされている救いの出来事なのです。祈りましょう。