説   教     イザヤ書4325  ルカ福音書51720

            「彼らの信仰を見て」 ルカ福音書講解 (32)

            2020・08・16(説教20331869)

 

 「(17)ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた」。今朝のルカ福音書517節以下は、このような御言葉で始まっています。ガリラヤの民衆たちが主イエスのもとに続々と群れを成して集まる様子に危機意識を抱いた「パリサイ人や律法学者たち」は、主イエスが何者であるかを確かめるために、ユダヤの各地からやって来て、いわば主イエスを虎視眈々と見張っていた様子が伝わってくるのです。

 

 そのような折、ひとつの事件と言いますか、出来事が起こりました。まさにパリサイ人や律法学者たちから見れば、主イエスの言葉尻を捕らえるのに絶好の機会が訪れたわけです。今朝の18節と19節をご覧下さい。「(18) その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。(19)ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた」。

 

 これは、普通のことではありません。まことに由々しき事態です。主イエスはある家の中で集まった人々に神の国の福音を宣べ伝えておられた。いわば主は説教をしておられたのです。そこに遠くの村から十数人の人々が、一人の病人を担架に乗せてやって参りまして、最初は玄関口から家の中に入ろうと試みたのですが、人々の数が多くてとても玄関からは中に入れなかった。普通でしたら諦めて帰るところなのですが、彼らは決して諦めようとしませんでした。なんと彼らはその家の屋根の上に、その病人を担架に乗せたまま登ったわけです。

 

 この事だけでも大きな驚きなのですけれども、なんと彼らは異常な行動に出たのです。主イエスがその下におられると思しきあたりの屋根瓦をはぎ取って。屋根に大きな穴を開けて、その穴から病人を担架に乗せたまま下に吊り下ろしたわけです。19節にこうあります。「(19)ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた」。こんなことはユダヤの歴史始まって以来の珍事であったことでしょう。何よりも家の中にいた人々はびっくり仰天したことでした。いかなり天井から大きな物音がしたと思いきや、屋根に大きな穴が開いて、そこから四隅に縄を付けた担架が病人を寝かせたまま吊り下ろされてきたわけです。おそらく家の中には砂ぼこりが濛々と立ちこめ、大変な状態になっていたに違いありません。

 

 そこで、さらに驚くべきことは主イエスのお姿でした。この驚天動地とも言えるアクシデントを前にして、なんと主イエスは少しも動じたたまわない。主は全く平然として、落着いておられるのです。それどころか、吊り下ろされてきた病人に優しく御手を置きたまい、彼に御声をかけておいでになる。この様子に人々は心底から感服したことでした。ですからそのような主イエスの様子を見て、最初は大騒ぎしていた人々もだんだんと静かになり、ついには完全な静寂の空間となりました。

 

 まさにその静寂の中で、主イエスの御声が響き渡ったのです。20節をご覧下さい。「(20)イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた」。次は「パリサイ人や律法主義者たち」が耳を疑う番でした。なんと主イエスは神にしかなさることができない「罪の赦しの宣言」をこの病人に対してしておられる。ということはつまり、主イエスはご自分を神に等しい者となしておられるわけです。だからパリサイ人や律法学者たちは互いに目配せをして「おい、いまの言葉を確かに聴いたな」と小声で言い合ったことでした。これこそは神聖冒涜の罪に相当する。これをエルサレムの大祭司に報告すれば、ナザレのイエスを十字架にかけて処刑することができる。そう確信したわけです。

 

 今朝のこの一連の御言葉の中で、私たちが最も注目すべきは何でしょうか?。私はそれはこの20節の御言葉「(20)イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた」であると思います。まずここに「イエスは彼らの信仰を見て」とあることに、私たちは驚くのではないでしょうか。キリスト教はある意味で主体的な信仰告白を重んじる宗教です。人任せではない、人頼みではない、自分の信仰を自分の口で言い表すことを重んじる宗教です。そこに異論のある人は、おそらく誰もいないでしょう。ところが今朝のこの20節では様子が違うのです。ここには明確に「イエスは彼らの信仰を見て」と記されているのです。このことを私たちは、どのように理解したら良いのでしょうか?。

 

 その答えは、実は今朝併せてお読みした旧約聖書イザヤ書4325節にあります。「(25)わたしこそ、わたし自身のために、あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」とあることです。ここに「とがを消す」とあるのは「汝の罪、赦されたり」と宣言することです。私たちにとって最も大切なこと、人生において最も究極的なことは、罪の赦しを得ることなのです。言い換えるなら、真の神に立ち帰ることなのです。しかしそれは、私たち自身の力や功績によって実現するのでしょうか?。答えは「否」です。少しも私たちの力や功績によってではありません。私たち自身の中には私たちの救いは無いのです。

 

 宗ではなく、私たちの唯一の救いは「(25)わたしこそ、わたし自身のために、あなたのとがを消す者である」と宣言して下さるかたにのみあるのです。それならば、ここに一人の病気の人がいて、その人が自分では声を出すことも、動くこともできない場合には、どうなりますか?。この人は自発的な信仰告白ができないから救いは無いという結論になるのでしょうか?。そうではないのです。本当のキリスト教はそんな宗教ではない。主イエス・キリストのみをかしらとする教会が宣べ伝える救いの音信はそのようなものではないのです。

 

 たとえ救いを願う人が、身動きすらできず、自分の声すら出せない状態であっても、その周囲にいる家族が、友人が、知人が、主イエスにのみこの人の救いがあるのだと信じるならば、主はその人々の信仰をご覧になって、まさに今朝の20節にありますように「(20)イエスは彼らの信仰を見て」「人よ、あなたの罪はゆるされた」とはっきりと宣言して下さるのです。主は「最後の者」をもお見棄てになることはないからです。私たちの中の最も小さなものをお見棄てになることはないからです。それどころか、その最も小さな、たった一人の救いのために、十字架の道を歩んで下さったかたなのです。

 

 小山久美子さんの母上、波津幸子さんが2年前に病床洗礼を受けられました。本来ならば佐島のホームの部屋での洗礼式をしたかったのですが、波津幸子さんは横須賀市民病院に入院されていて、そこでの文字どおりの病床洗礼式となりました。もちろん、もう意識がほとんど混濁状態でして、信仰告白をご自分の口で言える状態ではなかった。しかし私は今朝のこの御言葉の20節をはっきりと思い浮かべました。「(20)イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた」。ここに立っておいでになるのは主イエスです。主がこの姉妹の救いのために全てを成遂げて下さった。だから私はそのことを事前に3人の姉妹たちに告げまして、ただ主の御名によって母上の洗礼を行うことを申し上げたのです。

 

 そのような経験を、私はいままでずいぶん多くして参りました。そのたびに思わしめられることは、救いは少しも私たち自身の力によるものではないという事実です。私たちの唯一永遠の救いはただ主の御手にあるのです。そして主はあらゆる機会を通して、最も小さな者たちにさえも、すなわち、ここに集う私たち一人びとりにも、はっきりと語り告げていて下さるのです。「人よ、あなたの罪はゆるされた」と。祈りましょう。